細川左馬助
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時代 | 戦国時代 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 天文16年10月6日(1547年11月18日) |
別名 | 僧泉坊? |
官位 | 左馬助 |
幕府 | 室町幕府 |
氏族 | 細川玄蕃家(上野氏) |
父母 | 父:細川元全 |
兄弟 | 国慶、左馬助、僧泉坊? |
概要
[編集]天文15年(1546年)9月13日に兄の細川国慶と共に入京したとされ、翌年正月には龍安寺を訪れ酒を振る舞われている[1]。
京都を巡る細川晴元方との戦闘において、国慶の側近として兵粮米を徴収するための「折紙」を発給していた[1]。
天文16年(1547年)10月5日には、京都を占領していた晴元方の城であった桂川沿いの河島城を攻め、6日には西京の大将軍まで攻め上ったものの、その日のうちに国慶とともに戦死した[1]。
国慶の弟には、彼の挙兵に与同して浪人となった僧泉坊という人物がいたが、これが還俗して左馬助を名乗った可能性がある[1]。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]参考文献
[編集]- 馬部隆弘『戦国期細川権力の研究』吉川弘文館、2018年。ISBN 978-4-642-02950-6。
- 第三部第三章 「細川国慶の出自と同族関係」(初出:『史敏』通巻9号〈2011年〉)572-592頁。