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羽後地震

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
羽後地震の位置(秋田県内)
羽後地震
震源地

座標: 北緯39度54分 東経139度54分 / 北緯39.9度 東経139.9度 / 39.9; 139.9[1] 羽後地震(うごじしん)は、1810年9月25日(文化7年8月27日)に、出羽国男鹿半島(後の羽後国、現在の秋田県男鹿市)付近を震央として発生した、M6.5±14の地震[2]。脇本などで、現在の震度にして震度7相当の揺れであったと推定されている[3]。地盤の液状化が発生したと推定されている[4][5]

南秋田郡で死者59名、潰家1,078棟。山本郡で潰家51棟の被害が出た[6]。死者57名、全潰1,003棟とする資料もある[7]。なお、地震学者宇津徳治は死者60人・負傷者120人としている[8]

この地震は男鹿大地震とも言う。この年、5月頃から鳴動があり、8月始めからは八郎潟の水の色が変化し、ボラが多く死亡した。7月中旬頃からは地震が頻発し、8月25・26日頃には日に70回程度の地震が起きていた。9月25日にはM6.5と想定される大地震が発生した。寒風山を中心に被害が発生し、山崩れが多く地割れより泥が噴出した。被害は死亡者が57名(163名とも)、負傷者116名、全壊1,003棟、半壊400棟、大破387棟、焼失5棟(佐竹氏北家の『北家日記』による)であった。男鹿市北浦の温泉湧出が止まり、八郎潟の西岸の松木沢と払戸間が約1 m隆起した。現能代市の浜浅口と黒岡両村で全壊6棟であった。寒風山の山頂付近の地震塚には「変死亡霊供養塔」が建てられた。

菅江真澄はこの地震を男鹿滝川村で経験し、大地震前後の詳細な状況を『牡鹿の寒かぜ』に記録しつつ、大地震直後の寒風山東麓を巡っている。

脚注

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  1. ^ 日本地震学会日本付近のおもな被害地震年代表
  2. ^ 秋田災害忘れじの旅ある記 その4 男鹿市五里合にある震災復興の石碑【水田 敏彦】(24.12.27)|国立大学法人 秋田大学”. www.akita-u.ac.jp. 2021年2月14日閲覧。
  3. ^ 宇佐美龍夫 2010.
  4. ^ 古藤田喜久雄、若松加寿江「青森県西部および秋田県北西部地域の液状化履歴とその特徴」『第20回土質工学研究発表会発表講演集』1985年。 
  5. ^ 若松加寿江「液状化問題の地形・地質的背景」『応用地質』第32巻第1号、日本応用地質学会、1991年4月、28-40頁、doi:10.5110/jjseg.32.28ISSN 02867737NAID 110003356404 (古藤田喜久雄 & 若松加寿江 1985)からの孫引き
  6. ^ 教えて!なまず先生!~秋田県に被害を及ぼした歴史地震~(25.4.12)|国立大学法人 秋田大学”. www.akita-u.ac.jp. 2021年2月14日閲覧。
  7. ^ 水田敏彦、鏡味洋史「1939.5.1男鹿地震の被害分布に関する文献調査」『日本建築学会技術報告集』第16巻第33号、日本建築学会、2010年、817-820頁、doi:10.3130/aijt.16.817ISSN 1341-9463NAID 1300045069892021年10月1日閲覧 
  8. ^ 宇津徳治「宇津検索

参考文献

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