耶律鋳
耶律 鋳(やりつ ちゅう、1221年 - 1285年)は、モンゴル帝国及び大元ウルスに仕えた官僚。字は成仲。
概要
[編集]耶律鋳の家系はキタイ帝国(遼朝)の皇族に連なる名家で、金朝が興ると代々高官を輩出していたが、耶律鋳の父の耶律楚材の代からモンゴル帝国に仕えるようになった。耶律楚材には金朝に仕えていた頃に娶った梁氏という妻とその間に生まれた耶律鉉という息子がいたが、モンゴル帝国に仕えるようになった頃に生き別れ、入れ替わるようにして娶った蘇氏との間に生まれたのが耶律鋳であった[1]。1244年(甲辰)に耶律楚材が亡くなると、23歳にして父の地位を継承した[2]。
1258年(戊午)、耶律鋳はモンケ・カアンの南宋領四川侵攻に従軍し、軍功により金鎖甲・内厩驄馬を与えられた。その後、遠征中にモンケ・カアンが急死すると、遠征軍の一部を率いるクビライと本拠地カラコルムを守るアリクブケの間で帝位継承戦争が勃発した。耶律鋳はアリクブケ派が支配する軍団の中にいたが、クビライ派が有力と見ると妻子を捨てて単身クビライの陣営を訪れてその配下に入った[3]。ヒタイ地方(旧金朝領)では著名な耶律楚材の息子がアリクブケ陣営を見限ってクビライの下にやってきた政治的効果は大きく、中統2年(1261年)には中書省の中書左丞相に抜擢され、同年中には内戦中最大の激戦となったシムルトゥ・ノールの戦いにも従軍した[4]。
至元2年(1265年)には宋子貞とともに山東地方に派遣され、李璮の乱を経て漢人軍閥が解体された後の後処理を行った[5]。しかし、アリクブケが投降しクビライによる新しい国作りがスタートすると、アフマド・ファナーカティーに代表される実務に長けた官僚が重用され、耶律鋳の政治的価値は次第に低下していった[6]。至元4年(1267年)、遂に中書左丞相から平章政事に格下げとなったが、至元5年(1268年)に「耶律公神道碑(『元史』「耶律楚材伝」の元になった文章)」が撰述されたのはこうした苦境を打破するために父の耶律楚材の事蹟を史実以上に広めたいとの思いがあったためと考えられている[7]。至元13年(1276年)、国史の監修を命じられている[8]。
至元19年(1282年)、アフマドらムスリム官僚の重用に不満を抱く漢人官僚と結んだ皇太子チンキムが事実上のクーデターによってアフマド一派を排除し、新たな首脳班では耶律鋳が再び中書左丞相に選ばれた。しかし、至元22年(1286年)にチンキムが死去すると、後を追うように同じ年に65歳で亡くなった[9]。
息子は11人おり、耶律希徴・耶律希勃・耶律希亮・耶律希寛・耶律希素・耶律希固・耶律希周・耶律希光・耶律希逸らの名前が知られている[10]。耶律鋳の文集として、『双溪醉隐集』が残されている。
一族
[編集]脚注
[編集]- ^ 杉山1996,209-213頁
- ^ 『元史』巻146列伝33耶律鋳伝,「鋳字成仲、幼聡敏、善属文、尤工騎射。楚材薨、嗣領中書省事、時年二十三。鋳上言宜疏禁網、遂采歴代徳政合於時宜者八十一章以進」
- ^ 杉山1996,42-47頁
- ^ 『元史』巻146列伝33耶律鋳伝,「戊午、憲宗征蜀、詔鋳領侍衛驍果以従、屡出奇計、攻下城邑、賜以尚方金鎖甲及内厩驄馬。己未、憲宗崩、阿里不哥叛、鋳棄妻子、挺身自朔方来帰、世祖嘉其忠、即日召見、賞賜優厚。中統二年、拝中書左丞相。是年冬、詔将兵備禦北辺、後徴兵扈従、敗阿里不哥于上都之北」
- ^ 杉山1996,52-53頁
- ^ 杉山1996,54-55頁
- ^ 杉山1996,55-59頁
- ^ 『元史』巻146列伝33耶律鋳伝,「至元元年、加光禄大夫。奏定法令三十七章、吏民便之。二年、行省山東。未幾征還。初、清廟雅楽、止有登歌、詔鋳制宮懸八佾之舞。四年春三月、楽舞成、表上之、仍請賜名大成、制曰『可』。六月、改栄禄大夫・平章政事。五年、復拝光禄大夫・中書左丞相。十年、遷平章軍国重事。十三年、詔監修国史。朝廷有大事、必咨訪焉」
- ^ 『元史』巻146列伝33耶律鋳伝,「十九年、復拝中書左丞相。二十年冬十月、坐不納職印・妄奏東平人聚謀為逆・間諜幕僚・及党罪囚阿里沙、遂罷免、仍没其家貲之半、徙居山後。二十二年卒、年六十五」
- ^ 『元史』巻146列伝33耶律鋳伝,「子十一人、希徴・希勃・希亮・希寛・希素・希固・希周・希光・希逸淮東宣慰使、餘失其名。至順元年、贈推忠保徳宣力佐治功臣・太師・開府儀同三司・上柱国・懿寧王、諡文忠」