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シムルトゥ・ノールの戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

シムルトゥ・ノールの戦い(シムルトゥ・ノールのたたかい)は、モンゴル帝国帝位継承戦争の中で1261年クビライ軍とアリクブケ軍との間で行われた戦闘。戦場は漢文史料では昔木土脳児(xīmùtŭnǎoér)あるいは石木温都(shímùwēndōu)、ペルシア語史料ではشيمولتای(shīmūltāī)と記される。

経緯

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中統元年(1260年)に始まった帝位継承戦争は正当性はアリクブケ側にあったものの戦意の乏しいアリクブケ軍はクビライ軍に一方的に押され、首都のカラコルムをも失った。

しかしアリクブケは降伏すると偽ってこれを回復し、中統2年(1261年)11月に全軍をかき集めクビライ軍の本営を奇襲した。オイラト部族を中核とするアリクブケ軍に対し東方三王家を味方につけたクビライ軍は十分な兵力がありアリクブケ軍を迎え撃った。奇襲を狙ってろくに兵站の準備もせずクビライ軍と戦ったアリクブケ軍は早々に退却せざるをえず、ゴビ砂漠以北に撤退した[1][2][3]

補給力に大きな差のある両者の関係は以後逆転することなく、この後アリクブケ軍は衰退していくばかりとなる。

脚注

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  1. ^ 『元史』巻4世祖本紀1,「[中統二年]十一月壬戌、大兵与阿里不哥遇於昔木土脳児之地、諸王合丹等斬其将合丹火児赤及其兵三千人、塔察児与合必赤等復分兵奮撃、大破之、追北五十餘里」
  2. ^ 『元史』巻155列伝42史天沢伝,「中統元年……秋九月、扈従世祖親征阿里不哥、次昔木土之地、詔丞相線真将右軍、天沢将左軍、合勢蹙之、阿里不哥敗走」
  3. ^ 『元史』巻120列伝7史天沢伝,「世祖之征阿里不哥也、怯台子哈答与忽都忽跪而自献於前曰『臣父祖幸在先朝、当軍旅征伐之寄、屡立戦功。今王師北征、臣等幸少壮、願如父祖以力戦自効』。既得請、於是戦於石木温都之地。諸王哈丹・駙馬臘真与兀魯・忙兀居右、諸王塔察児及太丑台居左、合必赤将中軍。兵始交、獲其将合丹斬之、外剌之軍遂敗衄。又戦於失烈延塔兀之地、当帝前混戦、至日晡勝之」

関連項目

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