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胡瑛 (雲南)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
胡瑛
プロフィール
出生: 1889年10月1日
光緒15年9月初7日)
死去: 1961年4月3日
中華人民共和国雲南省昆明市
出身地: 清の旗 雲南省順寧府雲州
職業: 軍人
各種表記
繁体字 胡瑛
簡体字 胡瑛
拼音 Hú Yīng
ラテン字 Hu Ying
注音二式 Hú Yīng
和名表記: こ えい
発音転記: フー イン
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胡 瑛(こ えい)は、中華民国の軍人。雲南派(滇軍)の有力指揮官。民国初期においては、孫文(孫中山)を補佐した。蘊珊。なお、同じく中国同盟会に属し、後に籌安会の六君子の1人となった胡瑛は、同姓同名の別人である。

事跡

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初期の活動

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雲南優級師範学堂を経て、雲南陸軍講武堂に入学し、特別班に編入された。また、この時に、中国同盟会に加入している。1911年宣統3年)10月の昆明重九起義(辛亥革命)に革命派として参加した。

1912年民国元年)3月、唐継尭に随従して貴州入りし、以後、黔軍において昇進した。護国戦争第三革命)で軍功をあげ、1916年(民国5年)6月には黔軍第3混成旅旅長となっている。その後、黔軍の王文華の下で護法戦争に参戦する。1920年(民国9年)、唐継尭・王文華から、重慶衛戍司令に任命された。

同年に貴州で民九事変[1]が発生したが、胡瑛はこれに参加を望まなかった。1921年(民国10年)、胡瑛は孫文の援桂に参加し、援桂黔軍総司令に任命されている。この時、新広西派李宗仁白崇禧と良く連携し、交流が深まった。

しかし1922年(民国11年)、唐継尭の雲南復権に際して谷正倫による孫文への讒言があり、胡瑛は孫から猜疑されてしまう。胡は、やむなく雲南へ戻り、一時引退した。その後、唐の下で佽飛軍[2]第4軍軍長兼雲南憲兵司令として復帰している。

竜雲救出

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1927年(民国16年)2月、唐継尭が竜雲胡若愚ら4鎮守使の兵変で失脚した。胡瑛は雲南省務委員会候補委員に任命される。同年6月、胡若愚が竜を奇襲、捕縛する事件が発生し、再び雲南省内は混乱に陥る。竜配下の盧漢らの要請を受けた胡瑛は、国民革命軍第38軍軍長[3]として擁立されることに同意した。胡瑛は昆明に迫って胡若愚に竜を解放させ、これを復権させている。さらに後には、竜のために胡若愚らの軍を追撃、駆逐し、その雲南支配の確立に貢献した。

竜雲による雲南平定後は、胡瑛は前線指揮官の地位から退く。以後、20年以上にわたり、雲南省政府委員を務めた。その一方で国民政府参軍処参軍、雲南金融整理委員会委員長、制憲国民大会代表、行憲国民大会代表などを歴任している。日中戦争後の1945年(民国34年)10月に、竜が中央軍に昆明で包囲され、雲南省政府主席から罷免されそうになると、蔣介石の依頼で胡瑛がその投降を説得する役となった。

1949年(民国38年)1月、胡瑛は完全に引退し、昆明郊外の温泉郷に隠居した。国民政府からの台湾行の誘いも断り、中華人民共和国成立後もそのまま同地に留まっている。

1961年4月3日、隠居先で胡瑛は病没した。享年73(満71歳)。

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  1. ^ 貴州督軍劉顕世らの旧派に対して、王文華らの新派が兵変を起こした事件。劉は貴州から駆逐されたが、王も後に暗殺されたため、貴州はしばらく混乱時期に陥った。
  2. ^ 親衛隊の意。
  3. ^ 南京の国民政府は、当初、竜雲を第38軍軍長、胡若愚を第39軍として任命していた。その後、盧漢らの要請に従い、国民政府は胡瑛を第38軍軍長に正式に任命したが、竜雲の軍長の地位もそのまま保全されている。

参考文献

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  • 陳開国ほか「胡瑛」劉寿林ほか編『民国高級将領列伝 7』解放軍出版社、1999年。ISBN 7-5065-2292-6 
  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1