胡瑛 (湖南)
胡瑛 | |
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プロフィール | |
出生: | 1884年(清光緒10年) |
死去: |
1933年(民国22年)11月 中華民国南京市 |
出身地: | 清湖南省常徳府桃源県 |
職業: | 軍人・政治家・革命家 |
各種表記 | |
繁体字: | 胡瑛 |
簡体字: | 胡瑛 |
拼音: | Hú Yīng |
ラテン字: | Hu Ying |
注音二式: | Hú Yīng |
和名表記: | こ えい |
発音転記: | フー イン |
胡 瑛(こ えい)は、清末民初の政治家・軍人・革命家。中国同盟会以来の革命派人士。民国成立後に、一時は袁世凱の皇帝即位運動に加担した人物である。旧名は宗琬。字は経武。号は萱庵。祖籍は浙江省紹興府。なお、同じく中国同盟会に属し、後に孫文(孫中山)の側近となった雲南省出身の軍人にも、同姓同名の別人である胡瑛という人物が存在する。
事跡
[編集]革命派としての活動
[編集]16歳で長沙経正学校を卒業すると、胡瑛は革命派の活動に参加する。1904年(光緒30年)2月、胡は、黄興が組織した華興会に最年少の初期構成員として名を列ねた。同年3月には、武昌に赴き、華興会湖北支部総理となっている。
同年7月、胡瑛は長沙で科学補習所の創設に参加したが、革命蜂起に失敗して同所は閉鎖された。同年冬から鉄良暗殺を企んだが失敗し、日本に亡命した。最初は陸軍士官学校で学んだが、後に早稲田大学政治経済学部に転じている。
この年の8月に東京で中国同盟会が成立すると、胡も加入して評議員に選出された。1906年(光緒32年)12月、胡は孫文の指示により帰国し、湖北省で革命活動に再び従事した。しかし1907年(光緒33年)1月に、清朝により逮捕、収監されてしまう。1909年(宣統元年)夏、終身刑の判決を受けた。しかし獄中にありながらも、密かに革命派との連絡は取り合っている。
反袁世凱から籌安会へ
[編集]1911年(宣統3年)10月、辛亥革命が勃発すると、胡瑛は革命派に救出され、湖北軍政府外交部部長に任命された。さらに、湖北省代表として、南京で開催された省代表会議に参加し、中華民国臨時政府の組織に参与している。中華民国成立後の1912年(民国元年)、胡は初代山東都督に任命され、煙台で就任宣誓を行った。しかし、まもなく袁世凱により新疆青海屯墾使[1]に異動させられてしまう。結局、胡はこれに就任しなかった。
その後、胡瑛は宋教仁が組織した国民党に加わる。さらに参議院議員に選出された。1913年(民国2年)、宋が暗殺されると、胡は二次革命(第二革命)に加わって袁世凱討伐を図る。しかし敗北して、黄興とともに日本へ亡命した。翌年8月、胡は黄や李根源らとともに、欧事研究会を組織している。同年冬に帰国した。
1915年(民国4年)8月、胡瑛は、楊度・孫毓筠・厳復・劉師培・李燮和の5人とともに、袁世凱の皇帝即位を支援するための籌安会を組織した。翌年、皇帝即位運動が失敗に終わり、6月には袁が死去する。胡は、辛亥革命時の功績を評価され、籌安会組織の罪を問われることはなかった。
護法運動以後
[編集]1917年(民国6年)7月、孫文が護法運動を開始すると、胡瑛はその下に加わり、孫文陣営への復帰を果たした。1917年(民国6年)冬、湘西招撫使に任命される。翌年には、靖国軍第3軍軍長までもつとめた。1924年(民国13年)、胡瑛は孫の命により北方へ派遣され、馮玉祥らとの連絡工作を担当する。これにより、馮による北京政変(首都革命)にも参与した。
国民政府が北伐を開始すると、山西の閻錫山のために、胡瑛は駐南京代表となっている。その後、閻が反蔣介石戦争を起こすと、胡は第10路総指揮に任命された。しかし反蔣軍は敗北し、胡も指名手配されて漢口に逃げ込んでいる。満州事変(九・一八事変)勃発を機に、胡は指名手配を取り消されて国民政府に復帰した。しかし、すでに病を患っており、まもなく入院することになる。
1933年(民国22年)11月、南京で病没。享年50。
注
[編集]- ^ 斉霽「胡瑛」による。なお、徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』は、「甘青屯墾使」としている。
参考文献
[編集]- 斉霽「胡瑛」中国社会科学院近代史研究所『民国人物伝 第8巻』中華書局、1996年。ISBN 7-101-01328-7。
- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
中華民国(北京政府)
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