能川登
能川 登(のがわ のぼる、1851年12月5日(嘉永4年11月13日[1])- 1910年(明治43年)4月7日[1][2])は、明治期の実業家、政治家。衆議院議員。幼名・辰太郎[1]。号・西京農夫[1]。
経歴
[編集]加賀国[注釈 1]石川郡本吉町(金沢県石川郡美川町[1]、石川県石川郡美川町[3]を経て現白山市美川本吉町)で、船主・能川太平治の長男として生まれる[1]。金沢の叔父・畑春斎宅に寄寓し漢学を修めた[1]。13歳で帰郷し、郷校開道館・素読教師、加賀藩銃卒取締、駅逓取締を務めた[1]。1879年(明治12年)家督を相続[1]。
1874年(明治7年)大阪に出て法学を研究し、1877年(明治8年)京都に移り、草場船山に師事し漢学を修めた[1]。1878年(明治9年)9月、京都米商会所の創立委員として上京し、政府に出願をしたが許可を得られなかったため、内務卿大久保利通に面会して允許の内諭を得て帰京した[1]。同年11月、京都七条米商会所が開設されると頭取に就任し1884年(明治17年)まで在任した[1][2][3]。
1878年(明治11年)銅器製造販売・貿易の能川商会を設立し、東京にも出張所を設けて成功して多額の資産を得た[1]。京都府副用達、勧業場商務用掛、金沢荷為換会社社長も務めた[1][2][3]。1883年(明治16年)持船が北海道からの帰途、台風により沈没し、また経済変動により多額の資金を失った[1]。その挽回のため投機事業に手を出して失敗し一年間閑居した[1]。1885年(明治18年)12月、事業に復帰し、京都貿易銀行頭取、京都貿易商組合組長などを務めた[1][2][3]。1882年(明治15年)京都商工会議所発起人総代となり、1893年(明治26年)3月、京都商業会議所会員となり[1][2][3]、この間、米国世界博覧会委員にも嘱託された[1]。
1892年(明治25年)5月、補欠選挙で京都府会議員に選出され、連続3期在任し、1899年(明治32年)9月に退任した[1][2][3]。1903年(明治36年)3月、第8回衆議院議員総選挙(京都府京都市、中正倶楽部)で当選し[1][4]、衆議院議員に1期在任した[2][3]。
また、大日本農会京都支部常置議員、保勝会幹事などを務め[1][2][3]、京都癲狂院(現川越病院)・京都盲唖院(現京都府立盲学校、京都府立聾学校)などの事業にも資金援助を行った[1]。
国政選挙歴
[編集]- 第1回衆議院議員総選挙(京都府第2区、1890年7月、自由党)落選[5]
- 第2回衆議院議員総選挙(京都府第2区、1892年2月、自由党)次点落選[5]
- 第4回衆議院議員総選挙(京都府第2区、1894年9月、自由党)次点落選[6]
- 第7回衆議院議員総選挙(京都府京都市、1902年8月、無所属)落選[4]
- 第8回衆議院議員総選挙(京都府京都市、1903年3月、中正倶楽部)当選[4]
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 『京都府議会歴代議員録』284頁では能登国。
出典
[編集]参考文献
[編集]- 『衆議院議員総選挙一覧 上巻』衆議院事務局、1915年。
- 衆議院事務局編『衆議院議員総選挙一覧 自第7回至第13回』衆議院事務局、1918年。
- 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』衆議院事務局、1940年。
- 京都府議会事務局編『京都府議会歴代議員録』京都府議会、1961年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。