能村龍太郎
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能村龍太郎(のうむらりょうたろう、1922年5月29日 - 2006年1月19日)は、昭和後期-平成時代の経営者[1]。
人物・略歴
[編集]1922年(大正11年)生まれ、市岡中学校(現・大阪府立市岡高等学校)を卒業。 1946年(昭和21年)、「能村縫工所」を設立し、リュックサックや船舶用シートを製造する。 1947年(昭和22年)、株式会社に組織を変更、太陽工業と改称し社長となる。 1977年(昭和52年)、会長に就任。各種テントを中心に業績をのばし技術開発を進め、東京ドームの屋根膜などの施工を担う。 1985年(昭和60年)のつくば博では、テント製パビリオンの9割、大阪万博のアメリカ館などのパビリオンを手がける。 その他、関西経済同友会の幹事を務め、1995年(平成7年)には大阪文化賞を受賞する。 2006年(平成18年)、83歳で死去[2]。