脇子八幡宮
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脇子八幡宮 | |
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2023年11月撮影 | |
所在地 | 富山県下新川郡朝日町横尾966 |
位置 | 北緯36度57分30秒 東経137度34分18秒 / 北緯36.95833度 東経137.57167度座標: 北緯36度57分30秒 東経137度34分18秒 / 北緯36.95833度 東経137.57167度 |
主祭神 | 応神天皇(誉田別命)、豊城入彦命、事代主神、北陸宮[1] |
社格等 | 郷社 |
本殿の様式 | 神明造 |
別名 | 脇子神社 |
例祭 | 7月1日[1] |
主な神事 | 神火受の神事 |
地図 |
脇子八幡宮(わきごはちまんぐう[1])は富山県下新川郡朝日町にある神社。
歴史
[編集]『日本紀略』には寛平元年(889年)8月22日に脇子神に従五位下を授けるとの記載があり[1]、六国史以外に記載が見られる式外社に該当する。
治承年中、源平合戦が始まると、木曾義仲は以仁王の第一王子・北陸宮を越中国宮崎に迎え、社殿近くに御所を造り、元服を加え、平家打倒の戦勝祈願を行った[注 1]。八幡宮には、この時、義仲が献進したとされる太刀が米正作の扇額4面・鏡1面とともに保管されている。
天正年間(1573年-1592年)、泊地区に社家を移築し、同地区の氏神となった[3]。城山頂上はかつての宮崎城の城址であり、横尾の里宮に対して、ここには現在奥宮が存在する。
享保2年(1717年)、高波で泊町が被害を受けたのを機に翌年に泊町が現在地に大移動したため、当神社も享保5年(1720年)に現在地に社家を遷座した[3]。
近代社格制度のもとで神社名を脇子八幡宮として明治6年(1873年)8月に郷社に列格した[3]。昭和20年(1945年)に県社昇格の内定を受けていたが終戦となり、翌昭和21年(1946年)に県社となり[3]、現在に至っている。
祭神
[編集]祭神名は「応神天皇」、「豊城入彦命」、「事代主神」、「北陸宮」としている[3]。
創建
[編集]大宝2年(702年)、高向氏(高向大足)により、越中国と越後国の国境鎮護の神として脇子山に鎮祭されたと伝わる[1]。
神階
[編集]従五位下(寛平元年(889年)8月22日)[1]
神紋
[編集]ささりんどう
建造物
[編集]- 本殿 - 神明造
- 拝殿
- 神明社
- 奥宮 - 城山頂上
境内地
[編集]- 2,080坪[1]
主な行事
[編集]交通
[編集]- あいの風とやま鉄道線泊駅から北東へ徒歩30分。(里宮)
- 脇子八幡宮より徒歩約1時間。(奥宮)
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 現地「御由緒」より。また奥宮のある宮崎城跡に設置された石碑には「北陸宮が御神前で元服され、源義仲が武運長久の祈願をしたのはこの所」と記されており、御由緒が記す「社殿近く」とはこの奥宮の近くを指すと考えられる。さらに脇子八幡宮の宮司だった九里愛雄は「北陸宮御所阯」で「宮崎城が築かれたとき、御所を本丸にあてた」としており、今日、本丸跡とされている場所を御所跡としている。これに対し、富山県埋蔵文化財センター所長などを務めた竹内俊一は「北陸宮御所の推定地」(『両越国境朝日町の山城 今よみがえる歴史の里』朝日町中央公民館、1998年)で宮崎城跡とする説を否定した上で、立地条件などから朝日町笹川地区の「辻の内」地内を「第一の候補地にあげるより他にないだろうと思われる」としている。これとは別に富山県黒部市にある宮崎文庫記念館・尊史庵では同記念館所在地を「北陸の宮を天皇推挙時まで秘護し奉った仮宮跡と伝承される」としており、いささか諸説紛々とした様相を呈している。
出典
[編集]参考文献
[編集]- 全国神社名鑑刊行会史学センター『全国神社名鑑 上巻』全国神社名鑑刊行会史学センター 平成2年(1990年)