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至正条格

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

至正条格[1](しせいじょうかく)は、大元ウルスによって編纂され、至正5年(1345年)に完成した官撰法典

概要

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『至正条格』は、『至元新格』・『大元通制』に続く大元ウルスによる第三の官撰法典で、ウカアト・カアン(順帝トゴン・テムル)治世の至正4年(1344年)以前の大元ウルス歴代カアンが発布した法令に関わる一連の聖旨(ジャルリグ)・条画・律令格例・判例などが記録されている。

『至正条格』は明初には既に23巻しか残っていなかったが、清朝中期以後に断片を残して散逸してしまった。しかし、2002年になって新たに韓国において元代刊行の『至正条格』二冊が発見された。この刊本は完全なものではないものの、「条格」・「断例」が各一冊ずつ併せて25巻存在し、中国法制史の研究者から注目されている。

現存する『至正条格』はセチェン・カアン(世祖クビライ)治世の中統元年(1260年)から、至正4年(1344年)に至る[2]80年余りに大元ウルスが頒布したジャルリグ・条画・律令格例が所収されており、その多くは『元史』にも記述がないものである。

編纂過程

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ウカアト・カアン治世の至元4年(1338年)3月、中書平章政事アギラ(阿吉剌、Agila)に『大元通制』に依拠して条格を編纂せよとの命令がなされ[3]、また後至元6年(1340年)7月には翰林学士承旨デンハ(腆哈、Denha)・奎章閣学士康里巎巎らに『大元通制』を改訂せよとの命令がなされた。至正5年(1345年)11月に編纂は終了し、時の中書右丞相でアルラト部アルクトゥ(阿魯図、Arqtu)らは入奏し、ウカアト・カアンに『至正条格』の名を賜ることを請願した。この法典は2909条を所収し、その中には制詔150条・条格1700条・断例1059条が含まれており、至正6年旧暦4月5日(1346年4月26日)には『至正条格』中の条格・断例部分(2759条)が天下に頒布された[4]

『至正条格』は大元ウルスで22年にわたって使用されたが、至正28年旧暦8月2日(1368年9月14日)に明軍が大元ウルスの首都の大都を攻略し、大元ウルスがモンゴル高原に北遷した(北元)後、『至正条格』は用いられなくなり次第に散逸していった。

散逸から再発見まで

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明初に編纂された『永楽大典』には『至正条格』が所収されているが、この頃既に原本は失われ残本しか残っておらず、原本が何巻本だったかも不明である。『永楽大典』の記載によると、残本は23巻で、祭祀・戸令・学令・選挙・倉庫・捕亡・賦役・獄官など27項目に分かれているという。

清朝の乾隆年間に編纂された『四庫全書』には『永楽大典』に引用されていた『至正条格』の文章を纏めた書物が所収される予定であった。『四庫総目提要』の記載によると、『永楽大典』収録の23巻残本『至正条格』の内容は以下のようなものであったという。

「凡分目二十七、曰『祭祀』、曰『戸令』、曰『学令』、曰『選挙』、曰『宮衛』、曰『軍防』、曰『儀制』、曰『衣服』、曰『公式』、曰『禄令』、曰『倉庫』、曰『厩牧』、曰『田令』、曰『賦役』、曰『関市』、曰『捕亡』、曰『賞令』、曰『医薬』、曰『假寧』、曰『獄官』、曰『雑令』、曰『僧道』、曰『営繕』、曰『河防』、曰『服製』、曰『跕赤』、曰『榷貨』」。

しかし結局の所『四庫全書』にはこの解題のみが残されて本文は所収されることがなく、この書物もまた清代に散逸してしまった[5]

近現代において多くの研究者が『至正条格』は散逸してしまったと考える中で、2002年に韓国東南部の慶州において元代刊行の残本『至正条格』二冊が発見された。数百年にわたる経年劣化によって損傷が大きかったものの、数年の修復・整理作業を経て2007年8月に韓国学中央研究院より影印本・校注本の二冊が出版された[6]

脚注

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  1. ^ 『至正条格』という書名に言及するものとして、孔斉『至正直記』巻1「国朝文典」条には、「大元国朝文典、有『和林志』・『至元新格』・『国朝典章』・『大元通制』・『至正条格』・『皇朝経世大典』・『大一統志』・『平宋録』・『大元一統紀略』・『元真使交録』・『国朝文類』・『皇元風雅』・『国初国信使交通書』・『后妃名臣録』・『名臣事略』・『銭唐遺事』・『十八史略』・『後至元事』・『風憲宏綱』・『成憲綱要』」とある。
  2. ^ 韓国学中央研究院が2007年8月に出版した残本『至正条格』校注本の『至正条格』条文年代索引によると、残本『至正条格』に収録される官方文件で最も年代が早いのは中統元年(庚申、1260年)のもので、最も遅いのは至正4年(1344年)のものである。
  3. ^ 欧陽玄『至正条格序』(『圭斎集』巻7、 四部叢刊初編本)には、「至元四年(紀元1338年)戊寅三月二十六日、中書省臣言、『大元通制』為書、纘集於延祐之乙卯、頒行於至治之癸亥。距今二十餘年。朝廷続降詔條、法司続議格例、歳月既久、簡牘滋繁、因革靡常、前後衡決、有司無所質正。往復稽留、奸吏舞文。台臣屡以為言、請択老成耆旧文学法理之臣、重新刪定為宜」と記載されている。
  4. ^ 欧陽玄『至正条格序』(『圭斎集』巻7、四部叢刊初編本)には、「上乃勅中書専官典治其事、遴選枢府・憲台・大宗正・翰林集賢等官明章程習典故者、遍閲故府所蔵新旧条格、雑議而圜聴之、参酌比校、増損去存、務当其可。書成、為『制詔』百有五十、『条格』千有七百、『断例』千五十有九。至正五年冬十一月十有四日、右丞相阿魯図……等入奏、請賜其名曰『至正条格』。上曰、可。既而群臣復議曰、『制詔』、国之典常、尊而閣之、礼也……『条格』・『断例』、有司奉行之事也……請以『制詔』三本、一置宣文閣、以備聖覧、一留中書、一蔵国史院。『条格』・『断例』、申命鋟梓示萬方。上是其議」とある。
  5. ^ 滋賀2003、176-177頁
  6. ^ 韓国学中央研究院2007

参考文献

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  • 韓国学中央研究院編『至正條格』、2007年
  • 植松正「『至正条格』出現の意義と課題」『法史学研究会会報』12、2007年
  • 滋賀秀三『中国法制史論集:法典と刑罰』創文社、2003年
  • 蒲堅『中国法制史』中央広播電視大学出版社、2006年
  • 張帆「重現于世的元代法律典籍 ——残本<至正条格>」『文史知識』第2期、2008年