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與語淑子

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
よご としこ

與語 淑子
生誕 (1965-05-03) 1965年5月3日
死没 (2010-05-02) 2010年5月2日(44歳没)
国籍 日本の旗 日本
出身校 愛知淑徳短期大学[WEB 1]
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與語 淑子(与語 淑子、よごとしこ、1965年<昭和40年>5月3日[WEB 1] - 2010年<平成22年>5月2日[新聞 1])は、名古屋市中区二丁目にあった「みその亭」のおかみ[新聞 2]日本舞踊家。

人物

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東邦ガス代理店の家の長女として生まれる[WEB 1]愛知淑徳短期大学卒業後、かに道楽に入社[WEB 1]

在学中にナゴヤ球場でアルバイトしていたときに出会った「みその亭」の創業者がかに道楽に現れ、半年で「ペリカンみその」[注釈 1]に引き抜かれた[WEB 1]。不振だった店を繁盛店に変えたが、結婚を見据えて、名古屋大学工学部総務課に転職[WEB 1]。その頃に「みその亭」の創業者が亡くなり、自ら「みその亭」の女将を買って出たという[WEB 1][注釈 2]

「みその亭」は、もともとは1950年(昭和25年)創業の料理旅館だった[新聞 1]。料理旅館時代は読売ジャイアンツ阪神タイガースをはじめとした野球関係者の定宿でもあり、2階には現役時代の王貞治が素振りをしたという部屋も残るという[新聞 1]。淑子は同じくがんと闘病する王貞治に千羽鶴を送り、王もそれに対して「互いに頑張りましょう」としたためた色紙を返したという[新聞 1]。また、王はがんとの闘病において、淑子の前向きな姿勢が励みになったと振り返る[新聞 1]

2002年、日本舞踊を始めた[新聞 2]。きっかけは西川流の師匠から誘われたことによる[新聞 2]

2006年11月、卵巣がんが発覚[新聞 2]。手術後、仕事には復帰したものの、2007年4月の名取の試験を受けることは断念した[新聞 2]。しかし、日本舞踊の師匠に励まされ、2007年8月に練習を再開[新聞 2]。体力をつけるために抗がん剤を絶っての挑戦であった[新聞 2]。2008年4月、日本舞踊の名取に合格[新聞 2]

師匠の名「好風」(こうふう)から「風舞」(かざまい)と付けた[新聞 2]

2009年3月の「名披露目」も決まったが、2008年7月下旬に病状が悪化[新聞 2]。余命半年と宣告された[新聞 3]

2010年1月にはハワイの老人ホームで慰問公演を行った[新聞 1]

「今を生きる」と題した講演活動も意欲的に行った[新聞 3]。その最後は2010年4月24日、名古屋市内の企業で、鼻に酸素管を付けたまま講演に臨んだ[新聞 1]

2010年5月、卵巣がんで死去[新聞 3]。44歳[新聞 4]。翌日が45歳の誕生日だった[新聞 4]

葬儀は2010年5月4日、社葬として営まれた[新聞 1]

2010年10月9日に師匠の好風が追悼の舞を務めた[新聞 3]。このときの舞は、生前淑子が常連客の作曲家からもらった「生きる喜び」という曲に大師匠の西川好弥が振り付けしたものだった[新聞 3]

脚注

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注釈

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  1. ^ 系列の喫茶店[新聞 1]
  2. ^ 「中日新聞」(2010年)は、1997年に料理旅館から料理屋に業態転換したその亭のおかみに抜擢されたという表現をしている[新聞 1]

出典

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WEB

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新聞

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  1. ^ a b c d e f g h i j 「中区の老舗料理店「みその亭」44歳、與語淑子さん死去―おかみ 笑顔と挑戦貫く」『中日新聞朝刊』2010年5月8日、33面。
  2. ^ a b c d e f g h i j 「夢舞台へ魂の舞 がん闘病、名古屋の料理屋おかみ 名取り披露へけいこ」『中日新聞夕刊』2008年8月21日。
  3. ^ a b c d e 片山夏子「がん闘病 最期まで前向き「生きる喜び」踊りに―「みその亭」前おかみの遺志実現 日舞の師匠ら中区で9日披露」『中日新聞夕刊』、11面。
  4. ^ a b 寺本政司「料理店「みその亭」おかみ 與語淑子さん―「細腕」人生 力の限り」『中日新聞夕刊』2010年5月29日、2面。

参考文献

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  • 日外アソシエーツ 編『愛知県人物・人材情報リスト 2023』 1巻、2023年10月。