花山院定教 (権大納言)
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時代 | 鎌倉時代後期 |
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生誕 | 不詳 |
死没 | 嘉暦元年(1326年) |
官位 | 正二位、権大納言 |
主君 | 亀山上皇→後宇多天皇→伏見天皇→後伏見天皇→後二条天皇→花園天皇→後醍醐天皇 |
氏族 | 花山院家 |
父母 | 父:花山院定雅、母:不詳 |
兄弟 | 通雅、長雅、定教、浄雅、女子 |
妻 | 不詳 |
子 | 邦良親王妃 |
花山院 定教(かさんのいん さだのり)は、鎌倉時代後期の公卿。右大臣・花山院定雅[1]の子。官位は正二位・権大納言。
経歴
[編集]- 弘安4年(1281年)7月29日、叙爵。同年12月29日、侍従に任ぜられる。
- 弘安5年(1282年)1月14日、禁色を許される。同年4月8日、従五位上に昇叙。同年10月16日には右少将に任ぜられる。
- 弘安6年(1283年)1月5日、正五位下に昇叙。同年9月12日、従四位下に昇叙。同年12月16日、右中将に転任。
- 弘安7年(1284年)6月23日、従四位上に昇叙。同年11月25日、正四位下に昇叙。
- 弘安8年(1285年)3月6日、豊後介を兼ねる。同年6月13日、従三位に叙される。右中将は元の如し。
- 正応元年(1288年)9月13日、参議に任ぜられる。右中将は元の如し。
- 正応2年(1289年)1月13日、讃岐権守を兼ねる。8月7日、従二位に昇叙。10月18日、権中納言に任ぜられ、同月27日には帯剣を許される。
- 正応4年(1291年)10月29日、正二位に昇叙。
- 永仁元年(1293年)1月28日、権大納言に任ぜられる。
- 永仁2年(1294年)2月30日、父・定雅の喪に服す。4月28日に復任。
- 永仁3年(1295年)6月23日、権大納言を辞退[2]。
- 嘉暦元年(1326年)、薨去。
系譜
[編集]娘が邦良親王に嫁して康仁親王と邦世親王を産んだが、いずれの親王も皇位に登ることはなかった。