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若松只一

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
若松 只一
若松只一
生誕 1893年3月8日
日本の旗 日本 福島県
死没 (1959-11-19) 1959年11月19日(66歳没)
所属組織 日本陸軍
軍歴 1914 - 1945
最終階級 陸軍中将
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若松 只一(わかまつ ただかず、1893年明治26年)3月8日[1][2] - 1959年昭和34年)11月19日[1][注 1])は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。終戦時の陸軍次官

経歴

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本籍愛知県[1][2][3]。陸軍工兵中尉・若松八弥の長男として福島県で生まれる[1]名古屋陸軍地方幼年学校中央幼年学校を経て、1914年(大正3年)5月、陸軍士官学校(26期)を卒業[1][2][3]。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第33連隊付となる[1]1926年(大正15年)12月、陸軍大学校(38期)を卒業した[1][2][3]

歩兵第33連隊中隊長参謀本部付勤務、参謀本部員などを経て、1930年(昭和5年)8月から1932年(昭和7年)10月までドイツに駐在した[1]。1932年10月、歩兵第33連隊大隊長となり、参謀本部員、欧州出張、陸軍省軍務局課員(軍務課)、参謀本部付などを歴任し、1937年(昭和12年)6月、オーストリア大使館兼ハンガリー公使館付武官となり、1938年(昭和14年)3月、「ドイツによるオーストリア併合」(「アンシュルス」)以降、ハンガリー公使館付武官を経て帰国[1][3]1939年(昭和14年)8月、陸軍少将に進級し留守第3師団司令部付となる[1][2][3]

1939年10月、第38歩兵団長に就任し日中戦争に出征[1][2][3]広東付近での諸作戦に参加した[2]1940年(昭和15年)2月、第22軍参謀長に転じた[1][2][3]。同年11月、第22軍が廃止され参謀本部付となる[1][2][3]太平洋戦争を参謀本部総務部長として迎え、1942年(昭和17年)12月、陸軍中将に進級した[1][2][3]。 1942年12月、参謀本部第3部長となり、翌年10月、第46師団長に就任[1][2][3]1944年(昭和19年)11月、南方軍総参謀副長に転じた[1][2][3]1945年(昭和20年)4月、本土決戦に備える第2総軍参謀長に就任[1][2][3]。同年7月から10月まで陸軍次官を務め終戦を迎えた[1][3]。同年11月[注 2]予備役に編入となった[1]1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[4]

1948年(昭和23年)7月、南方から捕虜を輸送した際の虐待(いわゆる地獄船)に関与した容疑で逮捕、B級戦犯として裁判にかけられた[5]後、懲役刑の判決を受けて服役。

伝記

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栄典

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勲章

脚注

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注釈

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  1. ^ 『日本陸軍将官辞典』804頁では11月17日。
  2. ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』349頁では10月30日。

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t 『日本陸海軍総合事典』第2版、173頁。
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m 『日本陸軍将官辞典』804頁。
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』348-349頁。
  4. ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」190頁。
  5. ^ 「地獄船でB級公判」『朝日新聞』昭和28年7月28日.2面
  6. ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。

参考文献

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