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草刈隆継

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
草苅隆継
時代 江戸時代前期
生誕 慶長9年(1604年
死没 寛文4年4月19日1664年5月14日
改名 草苅小鍛冶丸(幼名)→草苅隆継
別名 通称:勝次郎→勝兵衛尉
主君 毛利秀就綱広
長州藩
氏族 藤原北家秀郷流宇都宮氏庶流草苅氏
父母 父:草苅重継、母:宗像氏貞の三女[注釈 1]
兄弟 女(鹿村正一室)、就継、女(都野就辰室)、種継隆継福岡氏継孝継円乗坊
継義
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草苅 隆継(くさかり たかつぐ)は、江戸時代前期の武士毛利氏の家臣で長州藩士。草苅氏美作国国人で、父は草苅重継(福岡重継)。兄に就継

生涯

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慶長9年(1604年)、毛利氏家臣の草苅重継(福岡重継)の次男として生まれる。

父・重継は毛利輝元に気に入られていたため、重継の子たちも輝元に可愛がられ、隆継も幼い頃より毛利秀就就隆兄弟の御遊伽にしばしば召し出されていた。この縁もあり、慶長16年(1611年1月11日、就隆の加冠状を受けて元服し、就隆から「隆」の偏諱を与えられて「隆継」と名乗った[1]

元和2年(1616年4月25日に父・重継が死去すると秀就に側近として召し出され、少知行を与えられる。その後、秀就、綱広の二代に仕え、寛文4年(1664年4月19日に死去。享年61。子の継義が後を継いだ。

脚注

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  1. ^ 閥閲録』巻69「草苅正兵衛」第1号、慶長16年(1611年1月11日付 草苅隆継宛て毛利就隆加冠状。

注釈

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  1. ^ 宗像氏貞と大友宗麟養女(臼杵鑑速の娘)との間に生まれた三女。桑田和明『戦国時代の筑前国宗像氏』 p.248~256

参考文献

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