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荒尾成利

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
荒尾成利
時代 江戸時代前期
生誕 天正17年(1589年
死没 明暦元年10月12日1655年11月9日
改名 駒之助(幼名)→成利→瀏節(号)
別名 内匠介、通称:但馬
戒名 顕功院殿
墓所 鳥取県鳥取市の興禅寺墓地
鳥取県米子市の了春寺境内・荒尾家墓所
主君 池田忠継忠雄光仲
岡山藩鳥取藩家老
氏族 荒尾氏
父母 父:荒尾成房
兄弟 成利嵩就和田三正久成成政
津田元匡
正室:池田長政の娘[1]
成直利純成美池田知利正室、
勝(栄久院、伊木忠貞室)、津田元茂室、和田三信
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荒尾 成利(あらお なりとし)は、江戸時代前期の鳥取藩家老。米子荒尾家初代。池田輝政の従弟にあたる。

生涯

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天正17年(1589年)、池田家家老・荒尾成房の長男として誕生した。

慶長19年(1614年)、大坂冬の陣の際、主君・池田忠継に従い出陣し、大和田攻略では右手の大将を務め武名を上げた。寛永2年(1625年)父・成房の隠居により家督を相続する。寛永7年(1630年)に成房の死去によりその隠居料も相続し、知行1万3000石となる。

寛永9年(1632年)、岡山藩主であった池田忠雄が死去すると、家督を継いだ光仲因幡国伯耆国に転封されることとなった。転封後は伯耆米子城代となり、弟・嵩就と共に幼い藩主・光仲を補佐し、政務を執り行った。慶安2年(1649年)、因幡東照宮造営の本奉行を務める。

後に、藩主親政を志す光仲と対立することとなり、承応元年(1652年)家老職を罷免、隠居を命じられ、家督を嫡男・成直に譲る。

明暦元年(1655年)10月12日、死去。享年67。三男の成美は分家成林の養子となった。

脚注

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  1. ^ 一説に山崎家盛の娘とも。

出典

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  • 「因府年表」

関連項目

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演じた俳優

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