荒尾成緒
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時代 | 江戸時代 |
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生誕 | 寛政7年(1795年) |
死没 | 文久2年10月3日(1862年11月24日) |
改名 | 駒之助(幼名)→成緒 |
別名 | 伊勢、但馬、近江、内匠介(通称) |
戒名 | 泰智院殿俊英淨寛大居士 |
墓所 | 鳥取県米子市の了春寺 |
主君 | 池田斉稷→斉訓→慶行→慶栄→慶徳 |
藩 | 鳥取藩家老 |
氏族 | 荒尾氏 |
父母 | 父:荒尾成尚 |
兄弟 | 成緒、成韶、成孝 |
子 | 和田信古室、養子:成裕 |
荒尾 成緒(あらお なりつぐ)は、江戸時代後期の鳥取藩家老。米子荒尾家9代。10代清心斎成裕の養父。
経歴
[編集]寛政7年(1795年)、鳥取藩家老荒尾成尚の長男として生まれる。
文政元年(1818年)8月、父の隠居により家督相続し、米子城代となる。文政2年(1819年)8月、初めて米子入りして1か月あまり滞在した。米子入りの行列は壮麗を極め、その評判は鳥取城下にまで聞こえた。特に、行列の所持する弓が、国主・城主にのみ許された「白藤巻の御弓」であったことは人々を驚かせ、着座筆頭荒尾家[1]の藩内での権勢を示す出来事であった[2]。
文政9年(1826年)10月、家老となる。文政10年(1827年)4月、内匠介と改名する。嘉永元年(1848年)6月、藩主池田慶行が早世する。7月、江戸に出府し、養子として御家相続が決まった慶栄を加賀藩邸より迎える。嘉永3年(1850年)12月、新藩主となった慶徳の将軍徳川家慶面前での元服の際に、ともに登城し将軍に拝謁する。
嘉永4年(1851年)9月、隠居して家督を養子の成裕(弟荒尾成孝の子)に譲る。文久2年(1862年)10月3日死去。享年66。
脚注
[編集]- ^ 鳥取藩では家老となる家柄を「着座十家」と呼び、特に米子荒尾、倉吉荒尾、和田、津田、鵜殿、乾の6家は「上六家」と呼ばれ、「下四家」米子分家、倉吉分家、下池池田、山池池田より格上とされた。また、「上六家」の中でも、功臣荒尾三兄弟の子孫の、米子荒尾、倉吉荒尾、和田の三家は、特に藩主家から特別扱いを受ける家柄であった。
- ^ 『米子市史』
参考文献
[編集]- 『因府年表』
- 『米子市史』