荒尾直就
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時代 | 江戸時代 |
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生誕 | 文化12年(1815年) |
死没 | 明治17年(1885年) |
改名 | 次郎作(幼名)→温就→直就 |
別名 | 志摩(通称)、常人(号) |
主君 | 池田慶徳 |
藩 | 鳥取藩家老 |
氏族 | 荒尾氏 |
父母 | 父:荒尾隆就、母、和田信之の娘、養父:荒尾世就 |
子 | 光就 |
荒尾 直就(あらお なおなり)は、幕末の鳥取藩家老。倉吉荒尾家10代。
生涯
[編集]文化12年(1815年)、鳥取藩家老、倉吉領主荒尾為就の嫡男隆就の子として生まれる。隆就の早世により、祖父為就の嫡孫となる。天保5年(1834年)、生母の保珠院が急死する。叔父世就の生母歌浦が、世就を世継とするために、直就とその生母の毒殺を謀ったためとされ、直就は一命を取りとめたものの病身となり、廃嫡される[1]。
安政3年(1856年)、叔父世継の死去により家督相続し、倉吉1万2000石の領主となる。元治元年(1864年)、第一次長州征伐のため、鳥取藩の第一陣を率いて出陣するも病に倒れ、12月に帰国する。慶応元年(1865年)、分家恒就の三男の音三郎(光就)を養子とする。慶応2年(1866年)7月、藩より預かり屋敷に幽閉していた河田景与ら、本圀寺事件の囚人に脱走され、閉門処分となる。11月、脱走に関わった直就の家臣が裁かれ、12月、藩より隠居を命じられ家督を光就に譲る。
脚注
[編集]- ^ 『鳥取藩史』
参考文献
[編集]- 『因府年表』
- 『鳥取藩史』