荒尾静一
あらお せいいち 荒尾 靜一 | |
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1921年の写真、満24歳。 | |
本名 | 吉冨 一郎 (よしとみ いちろう) |
生年月日 | 1897年1月 |
没年月日 | 不詳年 |
出生地 | 日本 鹿児島県 |
職業 | 元俳優、舞踏家、振付師、元オペラ歌手 |
ジャンル | 歌劇、舞踊、劇映画(時代劇・現代劇、サイレント映画) |
活動期間 | 1912年 - 1948年 |
配偶者 | 須田笑子 |
主な作品 | |
『狂めく舞踊場』 |
荒尾 静一(あらお せいいち、1897年1月 - 没年不詳)は、日本の元俳優、舞踏家、振付師、元オペラ歌手である[1][2][3][4][5]。荒尾 靜一と表記されることもある。本名及び旧芸名は吉冨 一郎(よしとみ いちろう)[1][2][3][4][5]。マキノ・プロダクションの主要人物の一人であり、東京少女歌劇団の花形としても知られる[1][2][3]。
来歴・人物
[編集]1897年(明治30年)1月、鹿児島県に生まれる、とされている[2][3][5]。『日本歌劇俳優写真名鑑』(歌舞雑誌社)には、生年は「明治三十年五月十三日」(1897年5月13日)である旨が記されている[1]。また、2000年(平成12年)4月1日に発行された『日本映画興亡史 マキノ一家』(ワイズ出版)には、生年・出生地は不詳としている[4]。
旧制・海城中学校(現在の海城高等学校)在学中から音楽研究所で声楽を学び、1912年(明治45年)、同中学校卒業後は早稲田大学に進学する傍ら高田舞踊団に入団、西本朝春らと同じ小学校出身の高田雅夫、石井漠らに師事して舞踊を学ぶ[1][2]。1918年(大正7年)3月、旭歌劇団に加入し、「荒尾 靜一」を名乗って日本館で初舞台を踏む[1][2]。この間、早稲田大学を卒業する[1]。その後、東京少女歌劇団に加わり、「荒馬」と称されるほどの人気を博した[1][2][3][4][5]。また一時期、同劇団を退団して舞踏の研究に専念していたこともある[2]。翌々年1920年(大正9年)に発行された『日本歌劇俳優写真名鑑』及び1921年(大正10年)に発行された『日本歌劇俳優名鑑』(活動倶楽部社)によれば、東京府東京市本所区新小梅町(後の東京府東京市本所区向島、現在の東京都墨田区向島1-5丁目)に住み、この当時の趣味は野球、尺八、読書であり、特技は舞踊であった[1][2]。
ところが、1923年(大正12年)9月1日に関東大震災が発生。折からの歌劇界不振により、間も無く退団[3]。1927年(昭和2年)3月、中根龍太郎(1901年 - 1944年)の紹介によりマキノ・プロダクションに入社し、映画俳優に転向する[3][4][5]。同年9月15日に公開された芝蘇呂門監督映画『狂めく舞踏場』で主演を務めたのを始め、以後、脇役として多数の作品に出演する。1929年(昭和4年)に発行された『日本映画俳優名鑑 昭和五年版』(映画世界社)によれば、京都府葛野郡花園村宮ノ上町(現在の同府右京区花園宮ノ上町)に住み、趣味はスポーツで、お酒と女が嗜好であるという[3]。また同書によると、後にトーキー部に所属し、専心擬音効果の研究に没頭していた[3]というが、1930年(昭和5年)に退社[4][5]。トーキー映画の出演は果たせなかったものの、同年8月8日に公開された阪田重則監督映画『進軍喇叭』において、荒尾は映画スタッフとして音響効果を担当した。
1931年(昭和6年)、フリーランサー協会に所属する[5]。その後、芸名を本名の「吉冨 一郎」に改名して、宝塚歌劇団、ムーランルージュ新宿座などの振付師に転向した[4][5]。第二次世界大戦終結後も引き続き活動していたが、1948年(昭和23年)1月に出版された『歌劇』(宝塚クリエイティブアーツ)における談話を最後に消息を確認できず、以後の消息は伝えられていない[4][5][6]。没年不詳。
出演作品
[編集]マキノ・プロダクション御室撮影所
[編集]特筆以外、全て製作は「マキノ・プロダクション御室撮影所」、配給は「マキノ・プロダクション」、特筆以外は全てサイレント映画である。
- 『踊る霊魂』:監督芝蘇呂門、1927年7月29日公開 - 河合静夫
- 『狂めく舞踏場』:監督芝蘇呂門、1927年9月15日公開
- 『潮やけ小自棄』(『潮自棄小やけ』):監督井上金太郎、1927年10月14日公開
- 『孤島の勇者』:監督富沢進郎、1927年11月11日公開
- 『八笑人』:監督マキノ正博、1927年12月31日公開 - 兄出目助
- 『愛しき彼』:監督マキノ正博、1928年1月29日公開
- 『燃ゆる花片』:監督マキノ正博、1928年3月1日公開
- 『忠魂義烈 実録忠臣蔵』:総指揮・監督マキノ省三、1928年3月14日公開 - 勅使・早川宗助
- 『紅手袋 前篇』:監督川浪良太、製作マキノ・プロダクション名古屋撮影所、1928年6月15日公開
- 『紅手袋 後篇』:監督川浪良太、製作マキノ・プロダクション名古屋撮影所、1928年6月22日公開
- 『噫山東』:監督吉野二郎、1928年6月29日公開
- 『鉄血団』:監督川浪良太、1928年7月20日公開
- 『傴僂の兄貴』:監督稲葉蛟児、1928年8月15日公開
- 『新聞』:監督三上良二、1928年9月21日公開
- 『大学のイーグル 第一篇』:監督川浪良太、1928年9月28日公開
- 『兄貴』:監督三上良二、1928年10月26日公開
- 『大学のイーグル 第三篇』:監督川浪良太、1929年1月20日公開 - 藤枝サム
- 『スキー行進曲』:監督三上良二、1929年2月1日公開
- 『異説 清水一角』:監督二川文太郎、1929年3月31日公開 - 鎌首の兵六
- 『進軍喇叭』:監督阪田重則、1930年8月8日公開 - 音響効果(映画スタッフ) ※トーキー