荒川亀斎
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荒川 亀斎(あらかわ きさい、文政10年(1827年)4月25日[1] - 明治39年(1906年))は、島根県松江市横浜町出身[1]の彫刻家である。名は明生[1]、通称は重之輔[1]。木彫りの彫刻等が有名であるが、機械器具の発明家でもある。
幼少期から彫刻界の天童と謳われ、地元では名の通った彫刻家だった[1]。彫刻だけでなく、日本画、国学、書道、金工などを幅広く身につけた[2]。1893年シカゴ万博に「稲田姫像」を出品して優等賞[2]、1900年パリ万博に「征韓図」を出品して銅牌を受賞した[2]。1890年小泉八雲と出会い[1]、その後も交流が長く続いた[2]。1906年死去。洞光寺に葬られた[1]。