荒鵑
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時代 | 鎌倉時代前期 |
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生誕 | 承元2年(1208年) |
死没 | 建暦3年3月21日(1213年4月13日) |
幕府 | 鎌倉幕府 |
氏族 | 三浦氏庶流和田氏 |
父母 | 父:和田胤長 |
荒鵑(こうけん)は、鎌倉時代前期の女性。和田胤長の娘。一族の苗字を付して和田荒鵑(わだ こうけん)と表記されることもある[1]。
生涯
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『吾妻鏡』および『系図纂要』参照[2][3]。 |
承元2年(1208年)、和田胤長の娘として誕生する[注釈 1]。
建暦3年3月17日(1213年4月9日)、泉親衡の乱に連坐した父・胤長は陸奥国岩瀬郡に配流された[4]。3月21日(4月13日)、父に会えなくなった悲しみから病になってしまった荒鵑がついに危篤となったため、胤長と似ていたはとこの和田朝盛が帰ってきたということを父と偽って伝えると、彼女は少し目を開けてその姿を微かに見て、ついに目を閉じて亡くなったという[2]。このとき6歳、その日の夜に火葬された[2]。27歳の母はこれを機に出家したという[2]。
この荒鵑の死は、和田合戦に至るまでの和田氏の悲劇の一つとしてしばしば取り上げられている。[要出典]
画像集
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伝・和田平太胤長廟墓(那須川市)(福島県那須川市稲下原9-5)
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鏡沼跡(福島県)(福島県岩瀬郡鏡石町鏡田影沼町)和田胤長妻自害の地
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]参考文献
[編集]史料
[編集]論文
[編集]- 野口武司「『吾妻鏡』の死没記事」『信州豊南短期大学紀要』第24巻、2007年3月1日、1-175頁。