荻野一雄
基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 北海道紋別郡西興部村 |
生年月日 | 1941年6月21日(83歳) |
身長 体重 |
176 cm 74 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 投手 |
プロ入り | 1960年 |
初出場 | 1962年 |
最終出場 | 1962年 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
この表について
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荻野 一雄(おぎの かずお、1941年6月22日 - )[1]は、北海道紋別郡西興部村出身の元プロ野球選手(投手)。
来歴・人物
[編集]西興部中時代から速球派投手として知られ、北海高校では2年からエース。2年生時の1958年秋季北海道大会札幌地区予選決勝では、千歳高に対して北海道高校野球史上初の完全試合を達成[2]。秋季北海道大会準々決勝に進むが函館工に敗退。1959年春季北海道大会の対歌志内高戦では、初回先頭打者から13連続三振を記録[2]。同年夏の甲子園南北海道予選決勝に進出するが、苫小牧東高に10回裏サヨナラ負け、甲子園出場を果たすことはできなかった[2]。同期には茅野智行(芝浦工大 → 西鉄)・八木沼陽一(立教大 → 河合楽器)、1期下には佐藤進(富士鐵室蘭 → 国鉄・産経 → 中日)などのメンバーを擁していた。シュート、アウトローに速球を配する巧みなコントロールが武器であった。
1959年のシーズンオフ、読売ジャイアンツに入団[2]。将来のエース候補として大いに期待されたが間もなく肩を痛め、登板機会のないまま1961年オフに自由契約となる[3]。1962年に難波昭二郎とともに西鉄ライオンズに移籍し[2]、同年に一軍初登板を果たす。その後は1971年まで現役を続けるも、出場機会はなかった[2]。
引退後はデサントに勤務。その後巨人にスカウトとして復帰し、後に編成部専任次長も兼任、ドラフトによる選手補強に手腕を発揮した。
現在に至るまで、北海道高校野球史上最高の投手という評価を受けている。また、著名なスポーツアナウンサーでもある西田善夫も「自分が見た高校生の投手では、作新学院高の江川卓と北海高の荻野一雄が双璧」と後年語っている。
詳細情報
[編集]年度別投手成績
[編集]年 度 |
球 団 |
登 板 |
先 発 |
完 投 |
完 封 |
無 四 球 |
勝 利 |
敗 戦 |
セ 丨 ブ |
ホ 丨 ル ド |
勝 率 |
打 者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
敬 遠 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴 投 |
ボ 丨 ク |
失 点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P |
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1962 | 西鉄 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | -- | -- | .000 | 2 | 0.1 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 1 | 9.00 | 3.00 |
通算:1年 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | -- | -- | .000 | 2 | 0.1 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 1 | 9.00 | 3.00 |
背番号
[編集]- 38 (1960年 - 1961年)
- 44 (1962年 - 1965年)
- 34 (1966年 - 1969年)
- 60 (1970年)
- 78 (1971年)
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 北海高等学校野球部史制作委員会編『北海野球部百年物語 北の球児、闘いの記録』北海高等学校野球部史制作委員会、2009年8月
- 『日本プロ野球トレード大鑑』ベースボールマガジン社、2001年
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 個人年度別成績 荻野一雄 - NPB.jp 日本野球機構
- カベスタ・北の球児たち - 2010年9月6日放送・伝説の豪腕、荻野一雄さん(12期・昭和34年度)の青春