菅原雅規
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時代 | 平安時代中期 |
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生誕 | 延喜19年(919年) |
死没 | 天元2年(979年)8月 |
別名 | 久松麿、英比殿 |
官位 | 従四位上、山城守 |
主君 | 朱雀天皇→村上天皇→冷泉天皇→円融天皇 |
氏族 | 菅原氏 |
父母 | 父:菅原高視、母:菅原宗岳の娘 |
兄弟 | 文時、雅規、緝熙、至貫、庶幾 |
妻 | 安倍春の娘 |
子 | 資忠、董宣、良正、菅原為紀室 |
菅原 雅規(すがわら の まさのり)は、平安時代中期の貴族。右大臣・菅原道真の孫で大学頭・菅原高視の子。官位は従四位上・山城守。幼名を久松麿。英比殿とも称す。
経歴
[編集]延喜元年(901年)昌泰の変が発生すると、祖父の右大臣・菅原道真、父の右少弁・高視とともに連座し、雅規は尾張国への流罪となった[要出典]。
文章博士となり、のちに左少弁を務めたという。また、村上朝で淡路守・因幡守・和泉守、円融朝で山城守など諸国の国司を務めた。天元2年(979年)8月卒去。享年61。
天暦2年(948年)久松寺を開基。末裔には久松氏がいるとされる。
官歴
[編集]- 天暦9年(955年) 10月8日:見淡路守[1]
- 応和元年(961年) 3月5日:見因幡守[2]
- 康保4年(967年) 8月3日:見前和泉守従五位上[3]
- 時期不詳:従四位上[4]。文章博士[4]。右少弁[5]。山城守[6]
- 天元2年(979年) 8月:卒去[7]