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菅舜英

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
すが しゅんえい

菅 舜英
生誕 1872年
日本の旗 日本石川県羽咋郡南邑知村字菅原(現・宝達志水町
死没 1956年(85歳)
日本の旗 日本北海道勇払郡安平村
国籍 日本の旗 日本
出身校 東京哲学館
東京神学院
職業 僧侶
政治活動家
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菅 舜英(すが しゅんえい、明治5年(1872年10月19日- 昭和31年(1956年5月27日)は、日本僧侶政治活動家。大正・昭和期の社会主義者、後に国家社会主義に転向。

概要

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井上円了東京哲学館東京神学院で学び、西本願寺北海道開教の僧侶として渡道。本山特命布教使として各地で布教講演を行う。日露戦争で従軍布教使として従軍し、乃木希典陸軍大将に講話を披露。以後、シベリア出兵などで中国、ロシアへ度々渡る。勇払郡安平村(現・安平町)安立寺住職に就いてからは、言論出版に精を出す。

個人雑誌「同志」「浄土」「他力」などを発行し、新聞雑誌への論文投稿も数多い。交友関係は広く、本願寺の改革運動で知り合った赤松克麿と親しく、赤松のすすめで社会民衆党公認で衆議院議員選挙に戦前だけで3度立候補している。当初はロシア革命に共鳴して社会主義を唱えたが、赤松と行動を共にするなかで次第に右傾化し、日本国家社会党国民協会日本革新党の結党などに参画している。1937年(昭和12年)の国政選挙では、赤松が北海道から出馬する手引きをし、選挙事務長を務めた。

アイヌ活動家辺泥和郎は菅の思想に影響を受けたという。

生涯

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1872年(明治5年)、石川県羽咋郡南邑知村字菅原(現・宝達志水町)の浄土真宗本願寺派明専寺に菅慶誓の長男として生まれる。幼名英丸1889年(明治22年)、県立金澤中学校(後の第四高等学校)卒業。1890年(明治23年)、東京哲学館卒業。1891年(明治24年)、東京神学院伝道部卒業。

1893年(明治26年)、父慶誓に伴って開教のため北海道へ渡る。札幌県白石村字厚別安楽寺衆徒。同月寒で布教に、厚別・夕張で児童教育にあたる。1899年(明治32年)、論文『浄土真宗撲滅論』発表。1902年(明治35年)2月、得度。同年6月、教師。同年8月、布教会員。

1904年(明治37年)、日露戦争に際し第8師団従軍布教使として大連港で布教。1904年(明治37年)、第3師団従軍布教使に付く。1906年(明治39年)、日露戦争後の満州法庫門に慰問部員として駐在。

1907年(明治40年)、勇払郡安平村追分安立寺住職に任命。結婚。本願寺改革運動に参加。1910年(明治43年)、個人雑誌『同志』発刊。以後、毎月発行。1913年(大正2年)、本願寺改革運動にかかる中央同志会を発足。この頃、赤松克麿と知己を得たと思われる。

1915年(大正4年)、第7師団従軍布教使に付く。1917年(大正6年)、南満州鉄道守備隊を慰問のため満州へ出張布教。1918年(大正7年)、シベリア出兵に際して第7師団派遣軍に従軍、浦潮斯徳(ウラジオストク)布教所駐在員。1919年(大正8年)、ウラジオストクの東洋学院日本語教師に就く。1920年(大正9年)、5月、尼港事件発生。救援隊と共にニコラエフスクに入る。帰国後、個人雑誌『浄土』発刊。

1924年(大正13年)9月、社会主義思想の流布の容疑で北海道庁警察部により「特別要視察人甲号(共産主義)」に編入。

1928年(昭和3年)2月、第16回衆議院議員総選挙日本農民党公認候補として立候補、落選。

1929年(昭和4年)、社会民衆党に入党、胆振支部顧問。同年、北海道の僧侶有志による後援会組織「舜英会」発足。1930年(昭和5年)、第17回衆議院議員総選挙に再び立候補。善戦するも落選。

1932年(昭和7年)4月、日本農民組合北海道聯合会を組織し、会員400名を集めるが、異安心を問われて真宗の僧籍剥奪さる。同年、赤松らと共に社会民衆党脱党、日本国家社会党結党に参加し、中央委員、北海道胆振支部長を務める。1933年(昭和8年)、かねてから親交のあった出口王仁三郎を頼り、大本教に転身。同年、赤松と共に日本国家社会党を脱退。

1936年(昭和11年)、赤松の組織した国民協会に転じ、空知支部を結成。同年、北海道議会議員選挙に室蘭から出馬、落選。

1937年(昭和12年)4月、第20回衆議院議員総選挙北海道第4区で赤松克麿の選挙事務長。赤松は最高点で当選。直後、日本革新党の結成に加わる。1940年(昭和15年)11月、維新翼賛北海道聯盟の結成に関与し、同聯盟顧問に就く。1941年(昭和16年)2月、維新翼賛北海道連盟理事。同年、本山より僧籍復帰を許可される。

1946年(昭和21年)、第22回衆議院議員総選挙に北海道大選挙区より出馬するも、次点で落選。

1956年(昭和31年)、安立寺にて85歳で死去。

著作

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参考文献

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