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華僑協会

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

華僑協会(かきょうきょうかい)は、1942年3月頃、日本軍が、占領統治下の東南アジア各地で設立させた、日本軍に協力する華人の有力者の団体組織。強制献金を推進するなどした。第25軍占領下のシンガポールでは昭南華僑協会が華僑協会を統括し、マラヤの華人有力者に総額5,000万海峡ドル英語版の献金を強要したほか、食糧不足や連合軍による反攻の懸念を背景として移民による開墾を推進、勤労奉仕隊の要員募集を行うなどした。[1]

華僑協会の設立

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マラヤ

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1941年12月19日、ペナンに入場した日本軍 (第25軍)は「華僑協会」結成を指令した[2]

1942年2月26日、ジョホール州ムアル英語版では、対日協力のための「治安会」を組織[2]

シンガポール

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1942年2月15日にシンガポールを占領した日本軍(第25軍)は、占領直後に実施した華僑粛清の集団検問の際、拘束した華人の有力者20余名を殺害せずにフォート・カニング下の教会跡に監禁し[3]、集団検問で拘束した林文慶博士らを脅迫・説得して日本軍に協力する民族団体を結成させた[4][5][6][7]

日本軍は林博士らに華人の有力者を集めさせ[8]、同年3月2日に吾廬倶楽部に集められた華僑の有力者2,30人に対して、黄堆金治安維持会の設立を提案、林博士らは「華僑は当地の僑民に過ぎず、参政権を持たないので、治安維持の責務は負えない」と主張して政治的活動を行わない「華僑協会」を組織することで合意し[9]マライ軍政部の承認を受けて、対日協力団体組織昭南華僑協会が発足、会議出席者は全員「華僑連絡員」として襟章を渡された[10]

華僑協会が設立されると、特別警察隊は、軟禁していた華僑の有力者ら20数名を、軍政協力を条件として釈放し[11]、監禁を解かれた華人の有力者や、同団体の庇護を求めてやってきた華人の有力者が協会に合流した[10][12][13][14]

設立当初の昭南華僑協会の組織の概要は下記のとおり[15][16][10][17]

  • 主席: 林文慶
  • 副主席: 黄兆珪
  • 理事長:呂天保
  • 理事会:理事22人で構成
  • 財務担当 1名
  • 秘書: 曾郭棠・陳育崧

[18][19][20]

昭南華僑協会は当初吾廬倶楽部を事務所にしており、後に中華総商会英語版に移転した[10][21]

北ボルネオ

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ボルネオ守備軍占領下の北ボルネオでは、1942年8月にクチンの長老・王長水英語版[22]を会長とする「華僑協会」が結成された[23]

華僑献金の推進

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マラヤ

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昭南華僑協会が発足すると、マライ軍政部次長兼総務部長・渡辺渡配下の高級嘱託高瀬通が同協会顧問となり、その通訳で台湾人の黄堆金(Wee Twee Kim)が同協会を監督して、マレー半島各州の華僑協会を統括し、5,000万ドル強制献金の募集を推進した[24][15][10][25][26][27]

華僑協会の代表は献金の責任を負わされ[28]、華僑協会は、資産の査定結果から献金額を各人に割り当て、過酷な取り立てを行った[29]。このため華僑協会は恨みを買い、非難の対象となった[30]

3月下旬、各州の華僑協会が出そろうと、各協会の代表をシンガポールの軍政部に集めて会議が開かれ、献金が指示された[31][32]

1942年6月25日に華僑献金の山下軍司令官に対する奉納式が行われ、献金問題が一段落すると、華僑協会の所管は昭南特別市に移管された[33]。しかし侮辱を感じた華僑の領袖は協会を去っていった[33]

北ボルネオ

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北ボルネオでは、華僑協会の結成に先立つ1942年7月26日に馬奈木敬信・ボルネオ守備軍参謀長から、華人の有力者に対して献金を促す演説が行われ、同年1942年8月に発足した華僑協会が華僑献金を推進した[23]

昭南華僑協会のその他の活動

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移民による開墾

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サイパン陥落以降(1944年秋以降)、食料の不足と、シンガポールでの連合軍との戦闘を見越して、日本軍は昭南華僑協会に命令してシンガポールの中国系住民約30万人をエンダウ入植地に移住させようとした[34]。1年余で実現するとしていたが、終戦までに送られた華人は6千人足らずで、華僑協会の事務所の職員を加えても約1万人だった[34]

勤労奉仕隊

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昭南華僑協会は勤労奉仕隊を取り仕切った[35]。日本軍の各部隊のために「勤労奉仕隊」で働くと、米4斤がもらえると新聞などで宣伝[35]。実際には仕事をしても給料がもらえず、日本兵から暴行を受け、白米は4両(1斤=16両)しかもらえないなど、ひどい待遇だったため、応募者は次第に減少し、制度が中止された[35]。その後これに代る組織として「協警会(警察協助会)」が組織された[35]

エンダオの「新昭南模範村」を建設するための費用として4,000ドルを寄付すると、昭南特別市の篠崎厚生科長の「証明書」が得られ、勤労奉仕隊その他の軍隊への徴用が免除されるという制度もあった[35]。「証明書」は闇で1,2万ドルで取引され、昭南華僑協会は「証明書」の発行により2,000万ドル以上を集めた[36]。軍政監部がこの「証明書」の効力を認めない、と発表して市政庁ともめ、結局効力が確認されたこともあった[36]

慈善活動

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昭南華僑協会は、双林寺英語版に難民収容所を設立し[36]、マレー半島から流入して来た難民に、市内の各寺院で炊出し給食を施すなど、市内の秩序回復に協力した[37]

日本人の優遇

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また昭南華僑協会に登録した華僑の商店は、正面入口に協会員であるしるしの大きな幕を垂らし、日本人が買物に行くと誰彼の別なく1割を引いたとされる[38]

華僑協会のその後

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シンガポールでは、終戦後、華僑献金に協力した華人の有力者は対日協力者の烙印を押され、理事長・献金主任の呂天保、総務の曾紀辰香港に亡命した[33]。また林文慶博士も一時は漢奸と呼ばれた[33]

脚注

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  1. ^ この記事の主な出典は、原 (1987)洪 (1986)篠崎 (1976, pp. 51–70)、陳 & 1973-07-31およびTan & 1947-06-12
  2. ^ a b 原 (1987, p. 91)、『南洋文摘』第6巻第1期、1965年1月からの引用として。
  3. ^ 大西 (1977, p. 144)。シンガポール占領直後に行われた市街地の集団検問・粛清の際、昭南警備隊の各分隊は大石隊長の命令により華僑の「大物」を(殺害せずに)「残置」した(同)。「第25軍は、華僑の領袖をして軍政に協力せしむるという意図を、シンガポール占領当初から持っていたようである」(同)。間もなく発足した特別警察隊(大西隊長)は、各分隊が「残置」していた「華僑の大物」(義勇軍幹部を含む)20数名を引取り、フォート・カニング下の教会跡にしばらく軟禁していた(同)。
  4. ^ 洪 1986, p. 19。後に昭南華僑協会の主席となる林文慶博士と副主席となる黄兆珪は、集団検問の際に日本軍に拘束された(同)
  5. ^ Tan & 1947-06-12。林博士とその家族は、アラブ街英語版で行われた検問で憲兵隊に見つかり、当初対日協力団体の要職に就くことを拒否していたところ、林博士の妻が憲兵隊から虐待を受け、その後篠崎護の説得を受け入れて収容所から解放された(同)。解放後も、林博士の家には憲兵隊の監視兵が派遣されていた(同)。
  6. ^ 陳 & 1973-07-31。1942年2月26日付の『昭南日報』には、「同月22日に、華僑の長老・林文慶博士が昭南警備隊によって救出され、日本軍当局と意見交換した結果、華僑のリーダーに任命されることを承諾し、マラヤの華僑全員が南京の汪兆銘政権を支持し、日本軍当局の指示に従って新東亜建設に邁進すると表明した」との記事が掲載された(同、Tan & 1947-06-12)。
  7. ^ 篠崎 (1976, pp. 52–57)は、昭南警備隊の嘱託となっていた篠崎自身が、同月25日か26日頃、重慶国民政府の支援者として検挙・連行されてきた林博士を「日本軍に協力する華僑の団体を組織し、拘束されている華僑の領袖をその組織員とすることで釈放させましょう」と説得して、林博士の同意を得た、としている。
  8. ^ 陳 & 1973-07-31は、2月27日に林博士、胡戴坤陳温祥曾郭棠および陳育崧クィーン街英語版(三馬路)にあった東洋ホテルで篠崎と会って腕章と良民証を受け取り、その後2日間華僑の有力者を探して回り、3日目に華僑の有力者を集めて会合が行われた、としている。
  9. ^ 陳 & 1973-07-31。「治安維持会」ではなく「華僑協会」とすることに関しては、2月27日に篠崎から提案があった、とされている(同、篠崎 1976, pp. 52–57)。篠崎 1976, pp. 52–57は、中国における「治安維持会」のように軍部の影響力が強い組織にならないようにしたことは、馬奈木敬信・マライ軍政部長の意向だった、としている。
  10. ^ a b c d e 陳 & 1973-07-31.
  11. ^ 大西 1977, pp. 144–145.
  12. ^ 篠崎 1976, pp. 52–57.
  13. ^ 篠崎 (1976, p. 60)では、発足したばかりの昭南華僑協会は、昭南憲兵隊の留置場に監禁されている250-300人の人々の名前を調べて協会員名簿を作成し、馬奈木軍政部長に提出して釈放を懇願、その結果「ひどい取り調べ」を受けていた李俊承、曾紀辰、王丙丁らの逮捕者が釈放され、協会の理事・会員となった、としている(同)。
  14. ^ Tan & 1947-06-12によると、協会事務所となっていた吾廬倶楽部には特高科や憲兵隊、警察のスパイ・密告者が出入りして監視しており、中華総商会の副会長・陳六使英語版や銀行家のOng Piah Tengらは庇護を求めて協会に現れたところを特高科に逮捕され、拷問を受けた。
  15. ^ a b 洪 1986, p. 19.
  16. ^ 篠崎 1976, p. 59.
  17. ^ Tan & 1947-06-12.
  18. ^ 洪 (1986, p. 19)では林・黄・呂に言及。
  19. ^ 篠崎 (1976, p. 59)では林・黄、理事として陳温祥・胡載坤、協会秘書として「曾谷同」、「陳育松」に言及があるが、呂と理事会・財務担当には言及がない。呂は理事で、後に「献金主任」に選出された、としている篠崎 (1976, p. 65)。
  20. ^ 陳 & 1973-07-31は林・呂と理事会に言及。副会長・理事の名前は挙げておらず、(名前を挙げずに)財務担当1名、秘書2名としている。
  21. ^ 篠崎 (1976, pp. 59–60)では発足時からヒル街47号の中華総商会を事務所にした、としている。
  22. ^ 1864-1950、王其輝英語版元連邦政府科学技術相の祖父
  23. ^ a b 原 1987, p. 92.
  24. ^ 原 1987, p. 91.
  25. ^ 篠崎 (1976, pp. 60–62)および篠崎 & 1972-09-01では、他民族に同情的だった馬奈木敬信マライ軍政部部長が1942年3月1日付でボルネオ守備軍へ転出した後、軍政部長に就任した渡辺とその配下の高瀬・黄堆金によって華僑協会が強制献金を推進する団体に変容した(ので自身は強制献金に関与していない)、としているが、馬奈木がボルネオ守備軍の参謀長に着任したのは同年4月10日で、馬奈木の在任中に既に強制献金は開始されており(原 1987, pp. 90–92)、陳 & 1973-07-31は献金の強制は当初から協会の主な活動目的だった、として篠崎 & 1972-09-01の見解を否定している。またTan & 1947-06-12は、黄堆金らは中国生まれの華人、篠崎らは海峡植民地生まれの華人を所管しており、両社の間には派閥抗争があった、としている。
  26. ^ 篠崎 (1976, p. 61-63)は、このほかに内田某が協会顧問、その通訳として神戸から招聘されてきた華商・黄建徳が協会の理事となり、会議の内容を高瀬に報告していた、としている。
  27. ^ 陳 & 1973-07-31では、高瀬は黄堆金をそれほど信用しておらず、別に遠藤某を顧問として派遣していた、としている。
  28. ^ 篠崎 1976, p. 65.
  29. ^ 篠崎 (1976, pp. 65–66)。協力しないものは憲兵隊に逮捕され、拷問された(同)
  30. ^ 篠崎 1976, p. 66.
  31. ^ 篠崎 1976, p. 64.
  32. ^ 「折から私は、昭南タイムズの責任者として華僑記者とユーラシアン記者を連れ、キャセイ・ビル英語版の大東亜劇場で開かれたマレー各州の華僑協会の登録代表者たちの招かれている会に出席した。華僑たちは白けきっているような様子に見えた。華僑たちのうち舞台に出て演説したのは華僑協会長の林文慶博士1人だけで、しかも声が小さいので後ろの方の席には聞えなかった。連れの記者たちも通訳してくれなかった」(井伏 1998, pp. 271–272)。
  33. ^ a b c d 篠崎 1976, p. 67.
  34. ^ a b 洪 1986, pp. 21–22.
  35. ^ a b c d e 洪 1986, p. 22.
  36. ^ a b c 洪 1986, p. 23.
  37. ^ 篠崎 1976, p. 61.
  38. ^ 井伏 1998, p. 267.

参考文献

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  • 井伏, 鱒二「続徴用中の見聞」『井伏鱒二全集』第26巻、筑摩書房、1998年10月、253-321頁、ISBN 9784480703569 
  • 原, 不二夫「シンガポール日本軍政の実像を追って」『アジア経済』、アジア経済研究所、1987年4月、83-95頁。 
  • 洪, 錦棠(著)、許雲樵・蔡史君(原編)田中宏・福永平和(編訳)(編)「1 日本軍進駐後のシンガポール」『日本軍占領下のシンガポール』、青木書店、1986年5月、10-23頁、ISBN 4250860280 
  • 大西, 覚『秘録昭南華僑粛清事件』金剛出版、1977年4月。 
  • 篠崎, 護『シンガポール占領秘録―戦争とその人間像』原書房、1976年。 
  • 陳, 育崧 (1973年7月31日). “「新加坡淪陷三年半」讀後(下)”. 南洋商報: p. 12. http://eresources.nlb.gov.sg/newspapers/Digitised/Page/nysp19730731-1.1.12.aspx 2016年3月20日閲覧。 
  • 篠崎, 護 (1972年9月1日). “新加坡淪陷三年半(4)”. 南洋商報: p. 16. http://eresources.nlb.gov.sg/newspapers/Digitised/Page/nysp19720901-1.1.16.aspx 2016年3月20日閲覧。 
  • 篠崎, 護 (1972年8月31日). “新加坡淪陷三年半(3)”. 南洋商報: p. 28. http://eresources.nlb.gov.sg/newspapers/Digitised/Page/nysp19720831-1.1.28.aspx 2016年3月20日閲覧。 
  • Tan, Y.S. (1947年6月13日). “How they kept their heads on their shoulders”. The Straits Times: p. 4. http://eresources.nlb.gov.sg/newspapers/Digitised/Page/straitstimes19470613-1.1.4.aspx 2016年3月23日閲覧。 
  • Tan, Y.S. (1947年6月12日). “The first terrible days in Singapore”. The Straits Times: p. 6. http://eresources.nlb.gov.sg/newspapers/Digitised/Page/straitstimes19470612-1.1.6.aspx 2016年3月23日閲覧。