落合恒雄
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落合 恒雄[1](おちあい つねお[2]、1872年(明治5年)[2] - 1940年(昭和15年)[2])は、日本の武道家、政治家。
経歴
[編集]鳥取県出身[1][3]。米子市西町、落合甚大夫の養子[2]。少時より剣道を修業する[1]。米子中学校(現・米子東高校)修学[3]。1905年、大日本武徳会教員養成所に入所、内藤高治範士の門下生となる[2]。卒業後米子中学校(現・米子東高校)武道教員を拝命する[1]。
1912年に師範学校、中学校教員剣道講習会において課程を修了する[2]。1917年12月より1921年10月まで西区長として自治に尽力する[4][5]。1921年9月より1927年3月まで米子町会議員として町政に参与する[4]。1927年7月、西区長に再任[4]。
1921年に剣道精錬証を取得、武徳会地方幹事、青年演武大会審判員となる[2]。1923年に山陰農工具清算人に選任される[6]。1930年に剣道教士の称号を贈られ、武道階級地方審査員鳥取支部長となる[2]。
1937年に剣道六段、1946年に同七段に昇進し、本部審判員になり、没後剣道八段を贈られる[2]。
人物
[編集]山陰地方の近代剣道、学校剣道の草分けである[2]。北辰一刀流である[1]。住所は米子市西町[1][3]。
脚注
[編集]- ^ a b c d e f 『昭和天覧試合 皇太子殿下御誕生奉祝』756頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2024年10月18日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j 『鳥取県大百科事典』144 - 145頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2024年10月18日閲覧。
- ^ a b c 『毎日年鑑 昭和11年』539頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2024年10月18日閲覧。
- ^ a b c 『米子市十周年史』381頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2024年10月18日閲覧。
- ^ 『米子自治史』58頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2024年10月18日閲覧。
- ^ 『官報 1924年04月04日』官報 第3481号付録 1頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2024年10月22日閲覧。