コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

落合恒雄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

落合 恒雄[1](おちあい つねお[2]1872年明治5年)[2] - 1940年昭和15年)[2])は、日本武道家政治家

経歴

[編集]

鳥取県出身[1][3]米子市西町、落合甚大夫の養子[2]。少時より剣道を修業する[1]。米子中学校(現・米子東高校)修学[3]1905年大日本武徳会教員養成所に入所、内藤高治範士の門下生となる[2]。卒業後米子中学校(現・米子東高校)武道教員を拝命する[1]

1912年師範学校、中学校教員剣道講習会において課程を修了する[2]1917年12月より1921年10月まで西区長として自治に尽力する[4][5]。1921年9月より1927年3月まで米子町会議員として町政に参与する[4]。1927年7月、西区長に再任[4]

1921年に剣道精錬証を取得、武徳会地方幹事、青年演武大会審判員となる[2]1923年に山陰農工具清算人に選任される[6]1930年に剣道教士の称号を贈られ、武道階級地方審査員鳥取支部長となる[2]

1937年剣道六段1946年に同七段に昇進し、本部審判員になり、没後剣道八段を贈られる[2]

人物

[編集]

山陰地方近代剣道、学校剣道の草分けである[2]北辰一刀流である[1]。住所は米子市西町[1][3]

脚注

[編集]
  1. ^ a b c d e f 『昭和天覧試合 皇太子殿下御誕生奉祝』756頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2024年10月18日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g h i j 『鳥取県大百科事典』144 - 145頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2024年10月18日閲覧。
  3. ^ a b c 『毎日年鑑 昭和11年』539頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2024年10月18日閲覧。
  4. ^ a b c 『米子市十周年史』381頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2024年10月18日閲覧。
  5. ^ 『米子自治史』58頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2024年10月18日閲覧。
  6. ^ 『官報 1924年04月04日』官報 第3481号付録 1頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2024年10月22日閲覧。

参考文献

[編集]
  • 大蔵省印刷局編『官報 1924年04月04日』日本マイクロ写真、1924年。
  • 大日本雄辯会講談社編『昭和天覧試合 皇太子殿下御誕生奉祝』大日本雄辯会講談社、1934年。
  • 大阪毎日新聞社、東京日日新聞社編『毎日年鑑 昭和11年』大阪毎日新聞社、1935年。
  • 米子市編『米子市十周年史』米子市、1937年。
  • 米子市編『米子自治史』米子市、1939年。
  • 新日本海新聞社鳥取県大百科事典編集委員会編『鳥取県大百科事典』新日本海新聞社、1984年。