蒔田城
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蒔田城 (神奈川県) | |
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城跡とされる横浜英和学院 | |
別名 | 蒔田御所 |
城郭構造 | 山城 |
天守構造 | なし |
築城主 | 吉良氏 |
築城年 | 15世紀後半~16世紀? |
主な城主 | 吉良頼康 |
廃城年 | 不明 |
遺構 | 腰曲輪?、堀? |
指定文化財 | 未指定 |
位置 | 北緯35度25分37.9秒 東経139度36分34.9秒 / 北緯35.427194度 東経139.609694度座標: 北緯35度25分37.9秒 東経139度36分34.9秒 / 北緯35.427194度 東経139.609694度 |
地図 |
蒔田城(まいたじょう)は、神奈川県横浜市南区蒔田町にあったとされる日本の城。武蔵世田谷(東京都世田谷区)と共に蒔田を領有した吉良氏の居城とされる。
概要
[編集]現在、学校法人横浜英和学院が所在する大岡川右岸の標高35メートル程の台地上にあったとされ、学院敷地内が本曲輪だったとされる。大正期には学院が建設されていたため、主要な遺構は削平された可能性が高いが、周辺に空堀や腰曲輪と見られるものが残るという[1]。
蒔田の吉良氏
[編集]吉良氏は足利将軍家の分家であり「御所(足利)が絶えれば吉良が継ぎ、吉良が絶えれば今川が継ぐ」 といわれるほど高い家格を持ち、世田谷城に拠ったが、軍事的には強大化せず戦国時代には後北条氏の勢力下に入った。ただし、その所領は『小田原衆所領役帳』に見えず、判物などの文書を独自に発給していることから、後北条氏配下にあっても特異な位置にあったと見られている [2] 。蒔田城の築城年代は不明だが、 15世紀末頃の吉良成高、あるいは吉良頼康の代には蒔田の地を領有し、「蒔田御所」と呼ばれたという [3] 。
供養塔
[編集]城跡の東南麓にある龍祥山勝國寺は吉良氏の菩提寺とされ、4基の五輪塔が「吉良家の供養塔」として横浜市地域史跡に登録されている[4]。
成美学園遺跡
[編集]英和学院の校名が「成美学園」だった時期(1939年~1996年)の1984年(昭和59年)、グラウンド整備に伴い校庭の一部で発掘調査が行われた。その結果縄文時代前期・弥生時代・古墳時代の竪穴建物跡など、古代の集落が検出されたものの、城郭関連遺構は発見されなかった。ただし、中世の遺物として火鉢片が1点出土したという[5]。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 横浜市歴史博物館 2014『蒔田の吉良氏-戦国まぼろしの蒔田城と姫君-』横浜市ふるさと歴史財団