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蒔田城

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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蒔田城
神奈川県
城跡とされる横浜英和学院
城跡とされる横浜英和学院
別名 蒔田御所
城郭構造 山城
天守構造 なし
築城主 吉良氏
築城年 15世紀後半~16世紀?
主な城主 吉良頼康
廃城年 不明
遺構曲輪?、?
指定文化財 未指定
位置 北緯35度25分37.9秒 東経139度36分34.9秒 / 北緯35.427194度 東経139.609694度 / 35.427194; 139.609694座標: 北緯35度25分37.9秒 東経139度36分34.9秒 / 北緯35.427194度 東経139.609694度 / 35.427194; 139.609694
地図
蒔田城の位置(神奈川県内)
蒔田城
蒔田城
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蒔田城(まいたじょう)は、神奈川県横浜市南区蒔田町にあったとされる日本の城武蔵世田谷東京都世田谷区)と共に蒔田を領有した吉良氏の居城とされる。

概要

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現在、学校法人横浜英和学院が所在する大岡川右岸の標高35メートル程の台地上にあったとされ、学院敷地内が本曲輪だったとされる。大正期には学院が建設されていたため、主要な遺構は削平された可能性が高いが、周辺に空堀腰曲輪と見られるものが残るという[1]

蒔田の吉良氏

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吉良氏は足利将軍家の分家であり「御所(足利)が絶えれば吉良が継ぎ、吉良が絶えれば今川が継ぐ」 といわれるほど高い家格を持ち、世田谷城に拠ったが、軍事的には強大化せず戦国時代には後北条氏の勢力下に入った。ただし、その所領は『小田原衆所領役帳』に見えず、判物などの文書を独自に発給していることから、後北条氏配下にあっても特異な位置にあったと見られている [2] 。蒔田城の築城年代は不明だが、 15世紀末頃の吉良成高、あるいは吉良頼康の代には蒔田の地を領有し、「蒔田御所」と呼ばれたという [3]

供養塔

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城跡の東南麓にある龍祥山勝國寺は吉良氏の菩提寺とされ、4基の五輪塔が「吉良家の供養塔」として横浜市地域史跡に登録されている[4]

成美学園遺跡

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英和学院の校名が「成美学園」だった時期(1939年~1996年)の1984年(昭和59年)、グラウンド整備に伴い校庭の一部で発掘調査が行われた。その結果縄文時代前期・弥生時代古墳時代竪穴建物跡など、古代の集落が検出されたものの、城郭関連遺構は発見されなかった。ただし、中世遺物として火鉢片が1点出土したという[5]

脚注

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  1. ^ 横浜市歴史博物館 2014 pp.7
  2. ^ 横浜市歴史博物館 2014 pp.25
  3. ^ 横浜市歴史博物館 2014 pp.24
  4. ^ 「横浜市文化財一覧」横浜市公式HP
  5. ^ 横浜市歴史博物館 2014 pp.4、pp.11

参考文献

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関連項目

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