藤原世嗣
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時代 | 平安時代初期 |
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生誕 | 宝亀10年(779年) |
死没 | 天長8年3月11日(831年4月26日) |
別名 | 世継 |
官位 | 従四位上、伊勢守 |
主君 | 桓武天皇→平城天皇→嵯峨天皇→淳和天皇 |
氏族 | 藤原式家 |
父母 | 父:藤原種継 |
兄弟 | 仲成、縵麻呂、山人、藤生、井出湯守、世嗣、安継?、薬子、東子 |
妻 | 不詳 |
子 | 永峯 |
藤原 世嗣(ふじわら の よつぐ)は、平安時代初期の貴族。名は世継とも記される。藤原式家、中納言・藤原種継の四男。官位は従四位上・伊勢守。
経歴
[編集]桓武朝の延暦19年(800年)正六位下から二階昇進して従五位下に叙爵し、大学頭に任ぜられる。平城朝から嵯峨朝にかけて侍従を務める傍ら、宮内卿・右少弁・下総介の諸官を兼ね、この間の弘仁3年(812年)従五位上に叙せられている。
弘仁12年(821年)正五位下、天長3年(826年)従四位下と嵯峨朝末から淳和朝にかけて順調に昇進する。のち、伊勢守として地方官に転じ、天長8年(831年)正月には従四位上に至るが、同年3月11日卒去。享年53。
人物
[編集]若い頃から物事を幅広く学び、鋭意精進した。自分に優れた才能に欠ける事を知り、目下の者に物事を尋ねるのを恥じなかった。人々に恭しく謹み深く接し、常にそれを忘れなかった。伊勢国司を務めたが、毀誉褒貶はなかった。
兄の訃報に接して百里の道のりを駆けつけるが、1ヶ月も経過しないうちに、後を追うように没したという[1]。
官歴
[編集]『日本後紀』による。
- 時期不詳:正六位下
- 延暦19年(800年) 正月4日:従五位下。日付不詳:大学頭
- 時期不詳:侍従
- 大同3年(808年) 5月21日:兼宮内卿
- 弘仁2年(811年) 7月23日:兼右少弁
- 弘仁4年(813年) 正月10日:兼下総介
- 弘仁3年(812年) 正月7日:従五位上
- 弘仁12年(821年) 日付不詳:正五位下
- 天長3年(826年) 正月7日:従四位下
- 時期不詳:伊勢守
- 天長8年(831年) 正月4日:従四位上。3月11日:卒去
系譜
[編集]- 父:藤原種継(737-785)
- 母:不詳
- 生母不明の子女
- 男子:藤原永峯
脚注
[編集]出典
[編集]- 森田悌『日本後紀 (下)』講談社学術文庫、2006年