藤原伊成
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時代 | 平安時代中期 |
---|---|
生誕 | 不詳 |
死没 | 不詳 |
官位 | 従五位上、左近衛少将 |
主君 | 一条天皇 |
氏族 | 藤原北家九条流 |
父母 | 父:藤原義懐、母:藤原為光の長女 |
兄弟 | 尋円、延円、成房、伊成、尋増、信懐、教忠、女子 |
藤原 伊成(ふじわら の これなり)は、平安時代中期の貴族。藤原北家、権中納言・藤原義懐の子。官位は従五位上・左近衛少将。
経歴
[編集]『権記』によると、長保2年(1000年)兄・成房の舎弟であった薬壽が加冠し、内蔵頭・藤原陳政が理髪を行ったとの記事があり[1]、これが伊成を指す可能性がある。
長保4年(1002年)の成房の出家を経て、長保5年(1003年)までに左兵衛権佐に任ぜられ、同年3月には従兄弟にあたる藤原行成の許を訪れた人物として『権記』に登場する[2]。寛弘4年(1007年)右中弁・藤原経通、侍従・藤原能信らと共に昇殿を許される[3]。のち、寛弘5年(1008年)右近衛少将、寛弘6年(1009年)左近衛少将と引き続き武官を歴任する。
同年11月末に中宮(土御門邸)で行われた敦良親王(のち後朱雀天皇)の誕生五夜の産養に際して、伊成は右兵衛佐・藤原能信から罵倒される内にその責めに耐えられず、笏で能信の肩を殴りつけた。これによって蔵人・藤原定輔は伊成を縁側から突き落とし、能信の家人を召し集め、髪を捕らえて俯せに踏みつけ、松明をもって殴り押さえつけたとされる[4]。この凌辱事件が原因で伊成は12月1日に出家した[5]。
官歴
[編集]- 長保5年(1003年) 3月20日:見左兵衛権佐[2]
- 寛弘3年(1006年) 正月6日:従五位上[6]
- 寛弘5年(1008年) 正月28日?:右近衛少将[7]
- 寛弘6年(1009年) 11月29日:見左近衛少将[8]。12月1日:出家[9]
系譜
[編集]『尊卑分脈』による。