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藤原伊衡

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
藤原伊衡
時代 平安時代前期 - 中期
生誕 貞観18年(876年
死没 天慶元年12月17日939年1月10日
官位 正四位下参議
主君 宇多天皇醍醐天皇朱雀天皇
氏族 藤原南家巨勢麻呂流
父母 父:藤原敏行、母:丹墀弟梶の娘
兄弟 有快、伊辛、伊衡、伊望、季方
藤原恒尚の娘
国紀、正家、国均、国光、伊行、中将更衣、藤原有相室、今君
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藤原 伊衡(ふじわら の これひら)は、平安時代前期から中期にかけての公卿歌人藤原南家巨勢麻呂流、左近衛中将藤原敏行の三男。官位正四位下参議

経歴

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宇多朝において春宮帯刀舎人を務め、春宮大進次いで春宮亮を務めた父・敏行と共に皇太子・敦仁親王に仕える。寛平9年(897年)7月に敦仁親王が践祚醍醐天皇)すると、帯刀舎人としての功労により右兵衛少尉に任ぜられるが、9月に敏行が右兵衛督となったため、伊衡は左衛門権少尉に遷る。のち、六位蔵人も歴任した。

延喜9年(909年従五位下叙爵し、延喜10年(910年宮内少輔に補せられる。延喜11年(911年)左兵衛権佐を経て、延喜16年(916年右近衛権少将に任ぜられると、五位蔵人を兼ねながら延喜17年(917年)従五位上、延喜22年(922年正五位下と昇進し、延長3年(924年従四位下・右近衛権中将に叙任される。その後も、左右近衛中将を務める傍ら、皇太子・寛明親王にも春宮亮として仕え、延長8年(930年)寛明親王が即位(朱雀天皇)すると正四位下に叙せられている。

承平4年12月(935年1月)参議に任ぜられて公卿に列す。のち議政官として、承平6年(936年刑部卿、承平7年(937年)左兵衛督を兼帯した。

天慶元年12月17日(939年1月)卒去享年63。最終官位は参議正四位下行左兵衛督。

人物

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勅撰歌人として『後撰和歌集』以下の勅撰和歌集に11首が入首している[1]

酒豪としての話が残る。延喜11年(911年)6月15日に宇多上皇の主催で行われた酒合戦に酒豪として招聘され参加した際、他の参加者が泥酔・嘔吐する中、伊衡がただ一人乱れることなく10杯を呑んだところで止められ優勝。賞として駿馬を与えられたという(紀長谷雄「亭子院賜飲記」〔藤原明衡撰『本朝文粋』所収〕)。

官歴

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注記のないものは『公卿補任』による。

系譜

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尊卑分脈』による。

  • 父:藤原敏行
  • 母:丹墀弟梶の娘
  • 妻:藤原恒尚の娘
    • 男子:藤原国紀(?-961)
  • 生母不明の子女
    • 男子:藤原正家 - または国紀の子
    • 男子:藤原国均
    • 男子:藤原国光
    • 男子:藤原伊行
    • 女子:中将更衣 - 醍醐天皇更衣
    • 女子:藤原有相
    • 女子:今君 - 後撰和歌集歌人。二首入集。

脚注

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  1. ^ 『勅撰作者部類』
  2. ^ 或いは左衛門少尉
  3. ^ 或いは左兵衛佐
  4. ^ a b c d e f g h 『近衛府補任』
  5. ^ 或いは閏正月29日

出典

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軍職
先代
源是茂
左兵衛督
937 - 939
次代
藤原顕忠