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藤原保忠

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
藤原 保忠
時代 平安時代前期 - 中期
生誕 寛平2年(890年
死没 承平6年7月14日936年8月3日
別名 八条大納言、八条大将、賢人大将
官位 正三位大納言
主君 醍醐天皇朱雀天皇
氏族 藤原北家
父母 父:藤原時平、母:廉子女王
兄弟 保忠顕忠敦忠仁善子褒子藤原実頼室、敦実親王妃、克明親王
三松俊行の娘
養子:頼忠
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藤原 保忠(ふじわら の やすただ)は、平安時代前期から中期にかけての公卿藤原北家左大臣藤原時平の長男。官位正三位大納言八条大納言八条大将賢人大将と称された。

経歴

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延喜6年(906年従五位下叙爵し、翌延喜7年(907年侍従に任ぜられる。醍醐朝の執政である左大臣藤原時平の長男として順調に昇進、右近衛中将右大弁を経て、延喜14年(914年)25歳で早くも従四位上参議に叙任されて公卿に列す。延喜21年(921年従三位権中納言に叙任されると、延喜23年(923年)には中納言に昇進すると共に、甥の慶頼王(同母妹藤原仁善子の子)が皇太子に立てられると、その春宮大夫に任ぜられる等、保忠は次期摂関の有力候補となった。

しかしながら、延長3年(925年)慶頼王は立坊2年余りで即位する事なく没し、また保忠の父・時平は既に早逝して、藤原氏の嫡流が叔父・藤原忠平に移っていた事もあり、延長8年(930年)保忠が正三位大納言に昇進した際には既に41歳になっており、大納言昇進時の年齢としては従兄弟の実頼(40歳)、師輔(35歳)に比べやや遅れた。

一生の大半を、父・時平に讒言されて大宰帥に左遷された菅原道真怨霊に怯えながら過ごしたとされる。保忠が病床に伏せ、祈祷のため僧侶に薬師如来の読経をさせた途中、宮毘羅大将の名前が出た事を聞いたところ、近衛大将である自分を縊ると読んでいるのだと思い、恐怖の余り気絶してしまったという[1]。結局、保忠は大臣の官職を目前にしながら、承平6年(936年)7月14日に薨去享年47という早逝であった。最終官位は大納言正三位兼行右近衛大将。なお、他の時平の子も同様に短命であり、これは時平が菅原道真を無実の罪に陥れた報いであると噂された。

人物

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保忠は御所から遠い八条の邸宅に住んでいたため、冬に遠い道のりを参内する際に、を焼いて温石のようにに当てて暖を取り、餅が冷えてくると車副の家来に投げて与えていたという(『大鏡』)[1]

の名手でもあり、その始祖とされる。祖父・基経から相伝され、少納言・豊原行見(有連)に相承した。延喜5年(905年)正月に醍醐天皇に対して笙の演奏を行い、賞されて「橘皮」という笙の名器を賜与された(『続教訓抄』)[2]

逸話

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近衛大将騎馬に乗る際、近衛番長が騎馬を先駆けして雑人を追い払うのが通例であった。ある時、八条大将保忠が乗っていた馬が、先駆けしていた番長の馬につられて走り出してしまう。保忠は桃尻(にすわりが悪い、落馬しやすいの事)であったために、落馬してを落として頭頂をさらす恥辱を受けてしまった。こののち長い間、番長が先駆する礼が行われなくなってしまったという(『古事談』)[3]

官歴

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公卿補任』による。

系譜

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注記のないものは『尊卑分脈』による。

脚注

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  1. ^ a b 大鏡』第二巻,左大臣時平
  2. ^ 『続教訓抄』
  3. ^ 『古事談』第二,臣節
  4. ^ 栗原信充考訂『百済王三松氏系図』

出典

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公職
先代
藤原仲平
陸奥按察使
933 - 936
次代
藤原扶幹
軍職
先代
藤原仲平
右近衛大将
932 - 936
次代
藤原恒佐
先代
藤原仲平
左衛門督
927 - 930
次代
藤原恒佐