藤原公兼 (非参議)
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時代 | 鎌倉時代 |
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生誕 | 仁治元年(1240年) |
死没 | 正和元年4月17日(1312年5月23日) |
改名 | 公遠 → 公兼 |
官位 | 正二位、非参議 |
主君 | 四条天皇→後嵯峨天皇→後深草天皇→亀山天皇→後宇多天皇→伏見天皇→後伏見天皇→後二条天皇→花園天皇 |
氏族 | 西園寺家庶流三条家(清水谷流) |
父母 | 父:藤原実持、母:宇佐大宮司公通の娘 |
兄弟 | 公蔭、公隆、公兼、公永、公尋、従三位持子(洞院公守室)、従三位按子(大納言花山院長雅室)、女子(法皇乳母) |
妻 | 月輪経家の娘 |
子 | 女子(永福門院大納言)、女子、三条実秀、実印、長嗣 |
三条 公兼(さんじょう きんかね/きんかぬ)は、鎌倉時代の公卿。非参議正二位。父は権大納言藤原実持、母は宇佐大宮司公通女[1]。
正二位まで至ったが、従三位に叙せられて位後、薨去するまで散位のままであった。
公兼と琵琶
[編集]『文机談』によれば、琵琶の名手藤原孝時の弟子として『古今著聞集』編者の橘成季の名が挙げられ、その流れをくむ人として公兼の名も挙げられている[2]。このことにより、公兼は琵琶を稽古していたことがわかる。
経歴
[編集]以下、『公卿補任』及び『尊卑分脈』に基づいて記述する。
- 寛元2年(1244年)1月5日、叙爵[3]。
- 宝治元年(1247年)3月6日、侍従に任ぜられる[4]。
- 宝治2年(1248年)1月6日、従五位上に昇叙。
- 建長4年(1252年)1月5日、正五位下に昇叙[5]。
- 建長5年(1253年)1月13日、阿波権介を兼ねる。
- 建長6年(1254年)8月9日、左少将に任ぜらる。
- 建長7年(1255年)1月7日、従四位下に昇叙。同月27日、左少将に還任。
- 康元元年(1256年)5月8日、父実持の喪に服す。同年7月4日、復任。
- 正嘉2年(1258年)4月6日、従四位上に昇叙。
- 正元元年(1259年)4月17日、正四位下に昇叙。
- 文応元年(1260年)4月8日、左中将に転任。
- 弘長元年(1261年)2月5日、美濃権守を兼ねる。
- 弘安元年(1278年)3月14日、従三位に叙される。
- 弘安7年(1284年)1月6日、正三位に昇叙。
- 正応4年(1291年)7月、母の喪に服す。
- 永仁6年(1298年)6月23日、従二位に昇叙。
- 正安3年(1301年)1月6日、正二位に昇叙。
- 正和元年(1312年)4月17日、薨去。享年73。