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藤原定国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
藤原定国
時代 平安時代前期
生誕 貞観8年(866年
死没 延喜6年7月3日(906年7月26日
別名 泉大将
官位 従三位大納言
主君 光孝天皇宇多天皇醍醐天皇
氏族 藤原北家良門流
父母 父:藤原高藤、母:宮道列子
兄弟 定国胤子、満子、定方定文、定数
安倍貞行の娘、上毛野安守の娘
道述の娘、藤原有実の娘
有雅、有述、有清、有好、有年、和香子、有逸、有用、有風
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藤原 定国(ふじわら の さだくに)は、平安時代前期の公卿藤原北家良門流、内大臣藤原高藤の長男。官位従三位大納言醍醐天皇外叔父泉大将と号す。

経歴

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光孝朝末の仁和3年(887年蔵人に補せられる。宇多朝に入ると、仁和4年(888年左衛門少尉を経て、寛平2年(890年従五位下叙爵し、翌寛平3年(891年侍従に任ぜられた。

寛平年間は侍従五位蔵人右衛門佐として宇多天皇の身近に仕えると共に、寛平5年(893年)甥の敦仁親王が皇太子に立てられると、春宮少進のち同大進としてこれに仕える。またこの間、寛平7年(895年)従五位上、寛平8年(896年正五位下左近衛少将、寛平9年(897年)3月に従四位下に叙任されるなど、宇多朝末にかけて急速に昇進した。

寛平9年(897年従四位下蔵人頭に叙任されるが、7月の敦仁親王の即位醍醐天皇)に伴って、従四位上・蔵人頭兼左近衛権中将に叙任される(蔵人頭は再任)。さらに昌泰2年(899年)には、2月に参議に任じられ公卿に列すと、同年12月には先任の参議7名をごぼう抜きにして従三位中納言に叙任されるなど、天皇外戚として引き続き急速に昇進した。

昌泰4年(901年)に発生した昌泰の変では、蔵人頭藤原菅根とともに醍醐天皇に対して「天下之世務以非為理」と奏上して、菅原道真失脚するきっかけを作り、変後には道真の後任として右近衛大将を兼帯している。翌延喜2年(902年大納言に至る。延喜4年(904年)醍醐天皇の皇子保明親王が立太子すると春宮大夫を兼ねた。

延喜6年(906年)7月3日薨去享年41。最終官位は大納言従三位兼右近衛大将春宮大夫陸奥出羽按察使

武人にして三十六歌仙に挙げられる歌人壬生忠岑は、定国の随身であったという(『大和物語』)[1]

官歴

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公卿補任』による。

系譜

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尊卑分脈』による。

脚注

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  1. ^ 『大和物語』125段
  2. ^ a b 『蔵人補任』
  3. ^ a b c d e 『近衛府補任』
  4. ^ 『日本紀略』

参考文献

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公職
先代
源光
陸奥出羽按察使
902 - 906
次代
藤原国経
軍職
先代
菅原道真
右近衛大将
901 - 906
次代
源光