藤原景斉
表示
藤原 景斉(ふじわら の かげなり/かげただ、生年不詳 - 治安3年7月17日(1023年8月6日))は、平安時代中期の貴族。藤原北家長良流、皇后宮権大夫・藤原国章の子。官位は従四位上・備前権守。
経歴
[編集]円融朝にて、左近衛将監を経て、天延2年(974年)ごろ巡爵により叙爵(従五位下)し、紀伊守に任官した。
一条朝初頭に若狭守を務めるが、この間の永延2年(988年)自邸を藤原保輔に襲われ物品を盗まれた[1]。また、任期終了後の永祚元年(989年)末には本任放還が未完了であることを理由に、前備前守・藤原理兼や前土佐守・藤原時清とともに殿上簡を削られている。
正暦3年(992年)ごろ河内守と再び受領に任ぜられたのち、長徳4年(998年)太皇太后宮権亮に任ぜられ、太皇太后・昌子内親王に仕える。長保元年(999年)昌子内親王が崩御した後、長保4年(1002年)ごろから寛弘2年(1005年)ごろまで大和守を務めた。
その後10年以上に亘って散位となるが、後一条朝の寛仁2年(1018年)ごろに備前権守に任ぜられ受領に復帰した。治安2年(1022年)6月11日に出家。最終官位は前備前権守従四位上。
右大臣・藤原実資は景斉と極めて親密であったことを『小右記』の随処に書いており、景斉は実資の家司であったと考えられる[2]。治安3年(1023年)7月17日に景斉が卒去すると、実資は忠時宿禰(家司の石作忠節)を景斉の後家に派遣し弔っている[3]。
官歴
[編集]- 天禄3年(972年) 10月3日:見左近衛将監[4]
- 時期不詳:従五位下
- 天延2年(974年) 2月25日:見紀伊守[4]
- 永延元年(987年) 6月3日:見若狭守[5]
- 永祚元年(989年) 12月27日:除殿上簡(本任放還未済)[5]
- 正暦3年(992年) 正月16日:見河内守[5]
- 長徳4年(998年) 12月16日:太皇太后宮権亮(太皇太后・昌子内親王)[6]
- 長保元年(999年) 12月:止権亮か(崩御)
- 長保4年(1002年) 11月25日:見大和守[7]
- 長和元年(1012年) 5月18日:見四位[5]
- 寛仁2年(1018年) 9月14日:見備前権守[8]
- 治安2年(1022年) 6月11日:出家(前備前権守従四位上)[9]
- 治安3年(1023年) 7月17日:卒去[3]
系譜
[編集]『尊卑分脈』による。
参考文献
[編集]- 『若紫抄 若き日の紫式部』至文堂、1968年、189p
- 『奈良平安時代史論集 - 第2巻』吉川弘文館、1984年、43p
- 『尊卑分脈 第二篇』吉川弘文館、1987年
- 宮崎康充編『国司補任 第三 第四』続群書類従完成会、1990年