藤原経隆
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時代 | 平安時代後期 |
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官位 | 正四位下、出雲守 |
主君 | 崇徳天皇 |
氏族 | 藤原北家中関白家 |
父母 | 父:藤原基隆、母:藤原長忠の娘 |
兄弟 | 忠隆、雅隆、経隆 |
妻 | 藤原宗能の娘 |
子 | 保隆、基能、経円、八条院女房 |
藤原 経隆(ふじわらの つねたか、生没年不詳)は、平安時代後期の貴族。藤原北家隆家流、修理大夫・藤原基隆の子。官位は正四位下・出雲守。
経歴
[編集]周防守を経て、大治3年(1128年)出雲守、大治5年(1130年)讃岐守と、白河院政期末から鳥羽院政期初頭にかけて、中四国地方の受領を歴任。またこの間、左兵衛佐・右衛門佐と武官も兼帯した。讃岐守在任中の天承元年(1131年)式内社である水主神社に参拝[1]。また、長承2年(1133年)には成功により従四位上に昇叙されている。
鳥羽院政期中期にも、但馬守・出雲守と再び受領を務め、位階は正四位下に至った。
官歴
[編集]- 天治2年(1125年) 日付不詳:見正五位下行左兵衛督(左兵衛佐か)[2][3]
- 大治2年(1127年) 12月:見周防守[4]
- 大治3年(1128年) 12月29日:出雲守、元周防守[5]
- 大治5年(1130年) 4月3日:兼右衛門佐[6]。10月27日:讃岐守[6]
- 長承2年(1133年) 12月26日:従四位上(造作賞)[7]
- 久安2年(1146年) 4月29日:見但馬守[8]。12月29日:出雲守、見正四位下[9]
- 養和元年(1181年) 11月:月権官[10]
系譜
[編集]『尊卑分脈』による。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 平安末期政治史研究 (東京堂出版): 1979|書誌詳細|国立国会図書館サーチ (ndl.go.jp)
- 近藤瓶城「史料通信叢誌 拾參」(史料通信協会、1893~1898年)
- 上杉和彦「藤原基隆」『朝日日本歴史人物事典』(朝日新聞社、1994年)
- 橋本義彦「藤原基隆」『改訂新版・世界大百科事典』(平凡社、2007年)
- 香川県神社誌 上巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp)
- 大日本史 第217-219 巻388・390 表(info:ndljp/pid/770018)
- 讃岐国官社考証 上巻(info:ndljp/pid/815400)
- 訳註大日本史 第11巻 大日本史普及会(info:ndljp/pid/2991119)
- 『尊卑分脈 第一篇』吉川弘文館、1987年
- 宮崎康充編『国司補任 第五』続群書類従完成会、1990年