藤原美都子
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時代 | 平安時代 |
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生誕 | 天応元年(781年) |
死没 | 天長5年9月5日(828年10月17日) |
墓所 | 宇治墓(在山城国宇治郡)[1] |
官位 | 従三位、内侍、贈正一位 |
主君 | 嵯峨天皇→淳和天皇 |
氏族 | 藤原南家 |
父母 | 藤原真作 |
兄弟 | 村田、弟藤、百城、三守、三成、五百城、美都子 |
夫 | 藤原冬嗣 |
子 | 長良、良房、順子、良相 |
藤原 美都子(ふじわら の みつこ、天応元年(781年)-天長5年9月5日(828年10月17日))は、平安時代初期の貴族女性、女官。藤原南家出身。父は藤原真作。父方の祖父は藤原仲麻呂の乱で処刑された藤原巨勢麻呂。夫は藤原冬嗣。娘に文徳天皇の母・藤原順子がいる[2]。
経歴
[編集]幼少期は斜陽の一族に産まれ不遇であったと推測される。藤原冬嗣の妻となり、3男1女を儲けると共に、自らの親族関係をも、もって冬嗣の政界工作に貢献したと考えられている。弘仁5年(814年)4月28日、冬嗣・美都子夫妻の邸宅である閑院第に嵯峨天皇が訪問し、その時に無位から従五位下に任官される[3]。のちに尚侍従三位となり[4]、嵯峨天皇、淳和天皇の2代の天皇に仕え[5]、後宮で権勢を振るった。天長5年(828年)9月5日、薨去[4]。享年48歳[6]。
冬嗣は艶福家であったが夫婦仲は良かったらしく、死後、美都子の遺言によりこの時代には珍しく冬嗣の墓に夫婦合葬された。嘉祥3年(850年)7月17日、文徳天皇の外祖母であるため正一位を贈られる[7]。
親族
[編集]脚注
[編集]- ^ 『日本三代実録』天安2年12月9日
- ^ 『日本三代実録』貞観13年(871年)9月29日条
- ^ 『類聚国史』
- ^ a b 『日本紀略』天長5年9月5日
- ^ 『尊卑分脈』、『一代要記』
- ^ 「新版増補国史大系」版『日本紀略』p. 327。大和文華館本『日本紀略』, 国書データベース, image 279。森田悌訳『日本後紀』下巻p. 290
次では享年38歳:「国史大系」版『日本紀略』p. 459。『平安時代史事典』p. 2184(林陸朗)。「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」(講談社)。「朝日日本歴史人物事典」(梅村恵子) - ^ 『日本文徳天皇実録』
参考文献
[編集]- 「藤原冬嗣家族について」栗原弘(『阪南論集』人文・自然科学編 27-4号)