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藤原親経

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

藤原 親経(ふじわら の ちかつね、仁平元年(1151年) - 承元4年11月11日1210年11月28日))は、平安時代後期から鎌倉時代にかけての公家藤原北家真夏流(大福寺流)、参議藤原俊経の次男。官位従二位権中納言

経歴

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後白河院政期前期の仁安3年(1168年文章得業生に補せられる。高倉天皇六位蔵人大学助を経て、承安元年(1171年従五位下叙爵し、承安2年(1172年宮内権少輔に任官した。

治承2年(1178年春宮・言仁親王の学士を兼任し、治承3年(1179年)再び高倉天皇の蔵人(五位蔵人)を務める。治承4年(1180年)言仁親王の践祚安徳天皇)により、親経は高倉院の判官代となった。

文治元年(1185年源頼朝の推挙により、上﨟の蔵人であった藤原親雅藤原定経を超えて親経が右少弁に任ぜられると[1]、文治4年(1188年)権右中弁、文治5年(1189年)従四位上・右中弁、建久元年(1190年正四位下・左中弁、建久6年(1195年)右大弁と弁官を務めながら順調に昇進する。この間、記録所勾当氏院別当造興福寺長官・御書院別当・率分勾当などを兼任し、建久5年(1194年)には文章博士にも任ぜられている。また、後白河院の院司、九条兼実家司など務めた。

建久9年(1198年)正月の土御門天皇の践祚に伴い、親経は後鳥羽院別当に補任され、同年12月には蔵人頭も兼ねている(右大弁は辞任)。正治2年(1200年参議に任ぜられ公卿に列し、その後も建仁元年(1201年従三位、建仁3年(1203年正三位と昇進を続けた。建仁4年(1204年)左大弁を兼ねて約6年ぶりに弁官に復任すると、のちに造東大寺長官・勘解由長官式部大輔なども兼帯している。

建永元年(1206年権中納言に昇任されるが、承元2年(1208年)7月に子息の親宗を蔵人に補す代わりに中納言を辞任。同年12月に従二位に至った。

承元4年(1210年)11月11日に熊野参詣の途上の紀伊国藤代宿で没する。享年60。

人物

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漢詩に秀で、後鳥羽土御門2代の侍読となり、九条兼実からは「当時の儒者で右に出るものはいない」と絶賛されている(『玉葉』)。元久2年(1205年)には『新古今和歌集』の真名序文を作成した。日記に『親経卿記』、著書に『角黄記』『東大寺供養式』などがある。

官歴

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公卿補任』による。

系譜

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尊卑分脈』による。

  • 父:藤原俊経
  • 母:平実親の娘
  • 妻:藤原親光の娘
    • 男子:藤原親資
  • 妻:藤原季行の娘
    • 男子:藤原宗親(1284-1228)
  • 生母不詳の子女
    • 男子:藤原兼経
    • 男子:藤原行経
    • 男子:親遍

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i 『弁官補任』

参考文献

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