藤原俊経
藤原 俊経(ふじわら の としつね、永久元年(1113年) - 建久2年1月22日(1191年2月17日))は、平安時代後期の貴族。藤原北家真夏流(大福寺流)、参議・藤原顕業の次男[1]。官位は正三位・参議。六角を号す。
経歴
[編集]鳥羽院政期前期の保延3年(1137年)文章得業生に補せられる。康治元年(1142年)正月に近衛天皇の六位蔵人に補任されるが、早くも5月には従五位下に叙爵し蔵人を離れている。久安2年(1146年)近衛天皇の読書始で初め尚復を務めるが[2]、仁平3年(1153年)蔵人巡により摂津守に任ぜられ受領に転じた。
保元2年(1157年)後白河天皇の五位蔵人に補せられるが、保元3年(1158年)には譲位のために蔵人を止められ、文章博士を兼ねた。永暦元年(1160年)権右少弁に任ぜられると、同年左少弁、永万元年(1165年)右中弁、仁安元年(1166年)従四位下・左中弁、仁安2年(1167年)従四位上、仁安3年(1168年)正四位下、嘉応2年(1170年)右大弁と弁官を務めながら順調に昇進する。またこの間の仁安3年(1168年)高倉天皇の御侍読を務めている。
承安4年(1174年)従三位に叙せられ公卿に列す。その後も治承3年(1179年)まで大弁を務め、治承4年(1180年)には式部大輔を兼ね、文人官僚の筆頭格となった。寿永2年(1183年)参議に任ぜられ、寿永3年(1184年)正三位に至る。
元暦2年(1185年)5月8日に出家。最終官位は参議正三位式部大輔勘解由長官阿波権守。法名は隆心。建久2年(1191年)正月22日に薨去。享年79。
日記に『俊経卿記』がある。
官歴
[編集]『公卿補任』による。
- 長承3年(1134年) 5月8日:給勧学院学問料
- 保延3年(1137年) 8月:文章得業生
- 保延4年(1138年) 正月22日:兼伯耆掾
- 保延5年(1139年) 3月13日:献策(備貢献、酬恩徳)。12月16日:典薬助
- 康治元年(1142年) 正月16日:六位蔵人。正月23日:式部大丞[3]。5月1日:従五位下(臨時)
- 久安2年(1146年) 12月20日:治部権少輔
- 久安3年(1147年) 12月10日:昇殿。12月12日:天皇御読書初尚復
- 久安4年(1148年) 正月7日:従五位上(策労)
- 仁平3年(1153年) 4月6日:摂津守(蔵人巡)
- 久寿元年(1154年) 正月5日:正五位下(策労)
- 保元2年(1157年) 4月26日:五位蔵人(去守)
- 保元3年(1158年) 8月11日:去蔵人(御譲位)。11月26日:兼文章博士
- 永暦元年(1160年) 正月21日:権右少弁、去少輔、博士如元。10月3日:左少弁
- 応保2年(1162年) 2月19日:兼中宮大進(育子立后日)
- 永万元年(1165年) 8月17日:右中弁。9月:氏院別当
- 仁安元年(1166年) 正月14日:従四位下(応保元年平野大原野行幸行事賞)。6月6日:左中弁。7月12日:兼修理左宮城使
- 仁安2年(1167年) 正月28日:従四位上(行幸院賞、中宮御給)、止進。12月30日:装束使[4]
- 仁安3年(1168年) 正月6日:正四位下(長寛元年八幡加茂行幸行事)。12月:御侍読。12月17日:補御書所別当
- 嘉応2年(1170年) 正月18日:右大弁。正月26日:給文章博士兼字(下名)
- 承安4年(1174年) 3月:辞博士(列判儒)。4月26日:従三位(臨時、嘉応元石清水行幸行事賞)、弁如元
- 承安5年(1175年) 正月22日:兼周防権守(弁労)。12月8日:左大弁
- 安元2年(1176年) 正月30日:兼勘解由長官
- 治承3年(1179年) 10月9日:辞弁(以男親経申補蔵人)
- 治承4年(1180年) 12月22日:兼式部大輔
- 治承5年(1181年) 3月26日:兼備後権守
- 寿永2年(1183年) 12月10日:参議、大輔長官権守如元
- 寿永3年(1184年) 正月6日:正三位
- 元暦2年(1185年) 正月20日:兼阿波権守。5月8日:出家(法名隆心)
- 建久2年(1191年) 正月22日:薨去[4]
系譜
[編集]『尊卑分脈』による。
- 父:藤原顕業
- 母:大江有経の娘
- 妻:藤原為隆の娘
- 男子:藤原顕行
- 妻:平実親の娘
- 男子:藤原親経(1151-1210)
- 妻:藤原有盛の娘
- 男子:藤原盛経(1162-1235)
- 生母不詳の子女
- 男子:俊厳(?-1254)
- 女子:藤原光長室
- 女子: