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藤原貞守

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
藤原貞守
時代 平安時代初期 - 前期
生誕 延暦17年(798年
死没 貞観元年5月1日859年6月5日
官位 従四位上参議
主君 淳和天皇仁明天皇文徳天皇
氏族 藤原北家
父母 父:藤原諸貞、母:松野氏の娘
兄弟 貞守、梶長、弘緒、女子
公仁、今子藤原清経
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藤原 貞守(ふじわら の さだもり)は、平安時代初期から前期にかけての公卿藤原北家参議藤原楓麻呂の曽孫。大舎人頭・藤原諸貞の長男。官位従四位上参議

経歴

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天長元年(824年大学允に任ぜられると、内匠助皇太后宮大進蔵人を経て、天長5年(828年従五位下に叙せられる。淳和朝後半は、右少弁式部少輔を歴任する。

天長10年(833年仁明天皇即位後、従五位上・春宮亮に叙任される。これ以降、春宮亮として春宮恒貞親王に仕える傍ら、讃岐介・豊前守信濃介等の地方官を兼ねる。承和9年(842年承和の変により恒貞親王が春宮を廃されると、貞守も連座して越後権守左遷される。承和14年(847年)2月に藤原近主ら変による他の配流者と共に帰京を許され、10月に河内国和泉国班田使次官に、翌承和15年(848年)には式部少輔兼備中守に任ぜられて、官界に復帰する。

嘉祥3年(850年)正月に正五位下に昇叙される。文徳天皇の即位後の同年11月に右中弁に任ぜられると、仁寿元年(851年従四位下、仁寿2年(852年蔵人頭・左中弁と俄に昇進し、仁寿3年(853年)には参議兼右大弁に任官公卿に列した。斉衡2年(855年)従四位上・式部大輔に叙任されている。

清和朝初頭の貞観元年(859年)5月1日卒去享年62。最終官位は参議従四位上行式部大輔。

人物

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器量に優れる一方で、学問にも広く通じていた[1]

官歴

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注記のないものは『六国史』による。

系譜

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尊卑分脈』による。

脚注

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  1. ^ 日本三代実録』貞観元年5月1日条
  2. ^ a b c d e f g h i j k 『公卿補任』

出典

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