藤原貞守
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時代 | 平安時代初期 - 前期 |
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生誕 | 延暦17年(798年) |
死没 | 貞観元年5月1日(859年6月5日) |
官位 | 従四位上、参議 |
主君 | 淳和天皇→仁明天皇→文徳天皇 |
氏族 | 藤原北家 |
父母 | 父:藤原諸貞、母:松野氏の娘 |
兄弟 | 貞守、梶長、弘緒、女子 |
子 | 公仁、今子、藤原清経室 |
藤原 貞守(ふじわら の さだもり)は、平安時代初期から前期にかけての公卿。藤原北家、参議・藤原楓麻呂の曽孫。大舎人頭・藤原諸貞の長男。官位は従四位上・参議。
経歴
[編集]天長元年(824年)大学允に任ぜられると、内匠助・皇太后宮大進・蔵人を経て、天長5年(828年)従五位下に叙せられる。淳和朝後半は、右少弁・式部少輔を歴任する。
天長10年(833年)仁明天皇の即位後、従五位上・春宮亮に叙任される。これ以降、春宮亮として春宮・恒貞親王に仕える傍ら、讃岐介・豊前守・信濃介等の地方官を兼ねる。承和9年(842年)承和の変により恒貞親王が春宮を廃されると、貞守も連座して越後権守に左遷される。承和14年(847年)2月に藤原近主ら変による他の配流者と共に帰京を許され、10月に河内国・和泉国の班田使次官に、翌承和15年(848年)には式部少輔兼備中守に任ぜられて、官界に復帰する。
嘉祥3年(850年)正月に正五位下に昇叙される。文徳天皇の即位後の同年11月に右中弁に任ぜられると、仁寿元年(851年)従四位下、仁寿2年(852年)蔵人頭・左中弁と俄に昇進し、仁寿3年(853年)には参議兼右大弁に任官し公卿に列した。斉衡2年(855年)従四位上・式部大輔に叙任されている。
清和朝初頭の貞観元年(859年)5月1日卒去。享年62。最終官位は参議従四位上行式部大輔。
人物
[編集]器量に優れる一方で、学問にも広く通じていた[1]。
官歴
[編集]注記のないものは『六国史』による。
- 時期不詳:正六位上
- 天長元年(824年) 9月:大学少允[2]。9月:大学大允[2]
- 天長2年(825年) 2月:内匠助[2]
- 天長3年(826年) 2月:兼皇太后宮少進[2]
- 天長4年(827年) 正月:蔵人[2]
- 天長5年(828年) 正月7日:従五位下
- 天長7年(830年) 2月10日:右少弁[2]。5月5日:式部少輔[2]、止弁。8月:兼右少弁[2]。
- 天長9年(832年) 正月11日:兼讃岐介[2]
- 天長10年(833年) 2月19日:従五位上。2月30日:春宮亮(皇太子・恒貞親王)、止弁
- 承和7年(840年) 正月30日:兼豊前守
- 承和8年(841年) 正月13日:兼信濃介
- 承和9年(842年) 7月26日:越後権守(左遷)
- 承和14年(847年) 2月10日:帰京。10月17日:河内和泉班田使次官
- 承和15年(848年) 正月13日:備中守。2月14日:式部少輔
- 嘉祥3年(850年) 正月7日:正五位下。正月15日:兼備前介。3月17日:左右兵庫使。11月29日:右中弁、備前介如元
- 嘉祥4年(851年) 4月1日:出居侍従。11月26日:従四位下
- 仁寿2年(852年) 2月:蔵人頭[2]。2月28日:左中弁
- 仁寿3年(853年) 正月16日:右大弁。8月8日:参議
- 仁寿4年(854年) 正月16日:兼下野守、右大弁如元
- 斉衡2年(855年) 正月7日:従四位上。2月:兼式部大輔[2]
- 貞観元年(859年) 5月1日:卒去(参議従四位上行式部大輔)
系譜
[編集]『尊卑分脈』による。