藤原長倫
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時代 | 鎌倉時代 |
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生誕 | 承安3年(1173年) |
死没 | 不詳 |
官位 | 正三位、式部権大輔 |
主君 | 後鳥羽天皇→土御門天皇→順徳天皇→仲恭天皇→後堀河天皇→四条天皇→後嵯峨天皇 |
氏族 | 藤原式家 |
父母 | 父:藤原光輔、母:不詳 |
兄弟 | 長衡、長倫 |
妻 | 不詳 |
子 | 養子:光兼、基長 |
藤原 長倫(ふじわら の ながとも)は、鎌倉時代の公家。藤原式家、文章博士・藤原光輔の次男。官位は正三位・式部権大輔。
経歴
[編集]後鳥羽院政期初頭の正治元年(1199年)文章得業生に補せられ、翌正治2年(1200年)丹後掾に任ぜられる。建仁元年(1201年)正月に献策を行うと、3月に式部少丞に任ぜられ、建仁2年(1202年)従五位下・越前権守に叙任される。
承元3年(1209年)従五位上・民部少輔に叙任されると、建保4年(1216年)式部少輔と京官を務め、建保6年(1218年)従四位下に昇叙された。承久元年(1219年)式部省の巡任を止められて治部大輔に遷るが、承久3年(1221年)文章博士となる。同年に発生した承久の乱以降は貞応元年(1222年)従四位上、元仁元年(1224年)正四位下と順調に昇進し、寛喜2年(1230年)式部権大輔に任ぜられた。
寛喜3年(1231年)春宮・秀仁親王の東宮学士を兼ね、貞永元年(1232年)秀仁親王が即位(四条天皇)すると学士の功労により従三位に叙せられ、藤原式家の氏人としては平安時代中期の参議・藤原忠文以来約280年ぶりに公卿の地位に昇った。天福元年(1233年)子息の光兼を大学頭に任じる代わりに式部権大輔を辞すが、延応元年(1239年)正三位に至る。
仁治3年(1242年)7月27日出家。法名・澄阿[1]または証阿[2]。
官歴
[編集]『公卿補任』による。
- 建久7年(1196年) 5月27日:給穀倉院学問料
- 正治元年(1199年) 2月6日:文章得業生
- 正治2年(1200年) 正月:丹後掾
- 建仁元年(1201年) 正月10日:献策。正月29日:大舎人権助。3月22日:式部少丞
- 建仁2年(1202年) 正月5日:従五位下(式部)。正月13日:越前権守
- 承元3年(1209年) 正月5日:従五位上(策)。10月30日:民部少輔
- 建保3年(1215年) 正月5日:正五位下(策)。正月13日:兼越中権介
- 建保4年(1216年) 正月13日:式部少輔
- 建保5年(1217年) 正月28日:兼出雲権介
- 建保6年(1218年) 正月13日:従四位下(策)
- 承久元年(1219年) 4月28日:治部大輔(止式部巡任之)
- 承久3年(1221年) 4月16日:文章博士。11月:院昇殿
- 貞応元年(1222年) 正月6日:従四位上。正月24日:兼越中介
- 元仁元年(1224年) 正月17日:正四位下
- 嘉禄2年(1226年) 正月23日:兼左京権大夫。4月19日:罷文章博士(以光兼申任宮内少輔)
- 寛喜2年(1230年) 2月8日:式部権大輔(與大輔相伝)
- 寛喜3年(1231年) 10月28日:兼東宮学士(春宮・秀仁親王)
- 貞永元年(1232年) 12月2日:従三位(前坊学士労)、式部権大輔如元
- 天福元年(1233年) 12月22日:辞権大輔(光兼申任大学頭)
- 延応元年(1239年) 日付不詳:正三位
- 仁治3年(1242年) 7月27日:出家
系譜
[編集]『尊卑分脈』による。