藤原長岡
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時代 | 平安時代初期 |
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生誕 | 延暦5年(786年) |
死没 | 嘉祥2年2月6日(849年3月4日) |
官位 | 従四位上、大和守 |
主君 | 平城天皇→嵯峨天皇→淳和天皇→仁明天皇 |
氏族 | 藤原北家 |
父母 | 父:藤原内麻呂、母:坂上登子 |
兄弟 | 真夏、冬嗣、秋継、桜麻呂、福当麻呂、長岡、率、愛発、大津、衛、助、収、平○○、恵須子、緒夏、紀有常室 |
子 | 朝善、北雄、忠雄、南雄、奉公、統仁、統方、発生、潔子、藤原清瀬室 |
藤原 長岡(ふじわら の ながおか)は、平安時代初期の貴族。藤原北家、右大臣・藤原内麻呂の六男[1]。官位は従四位上・大和守。
経歴
[編集]大同2年(807年)陸奥大掾、同年9月に左兵衛少尉に転じるが、任期の5年間で歩射・騎射の両方の節会に付き従い、作法を間違える事がなかったという[1]。弘仁2年(812年)出羽介に任ぜられるが遥任として京に留まり、続いて駿河介と国司の次官を歴任。弘仁10年(819年)従五位下に叙爵し、のち播磨介・播磨守を務めるなど、嵯峨朝では主に地方官を務めた。
淳和朝に入ると、天長元年(824年)山城守を経て、天長5年(828年)従五位上に叙任される。淳和朝後半は治部大輔・宮内大輔・木工頭・右衛門佐と京官を歴任した。
仁明朝初頭の承和元年(834年)右馬頭に遷るが、承和2年(835年)正月に正五位下、9月に従四位下と続けて昇叙される。またこの頃越前守に任ぜられる。
承和10年(843年)山城守に任ぜられるも病であるとして出仕しなかったところ、同年7月大和守に任ぜられ、任官を固辞するも今度は許されず官職に就く。承和13年(846年)従四位上。大和守の任期終了後は大和国宇智郡の山家に隠居し、嘉祥2年(849年)2月6日卒去。享年64。最終官位は散位従四位上。
人物
[編集]武芸に長じた一方、在任した各官職において清廉かつ有能であると評された[1]。
官歴
[編集]『六国史』による。
- 大同2年(807年) 日付不詳:陸奥大掾。9月:左兵衛少尉
- 弘仁2年(812年) 日付不詳:出羽介(遙任)。
- 時期不詳:駿河介
- 時期不詳:正六位上
- 弘仁10年(819年) 正月7日:従五位下
- 時期不詳:播磨介。播磨守
- 天長元年(824年) 日付不詳:山城守
- 天長5年(828年) 正月7日:従五位上
- 時期不詳:治部大輔。宮内大輔。木工頭
- 天長8年(831年) 正月:但馬権守
- 時期不詳:兼右衛門佐
- 承和元年(834年) 3月21日:兼右馬頭、但馬守如元
- 承和2年(835年) 正月7日:正五位下。9月4日:従四位下
- 時期不詳:越前守
- 承和10年(843年) 3月2日:山城守。7月:大和守。11月16日:山城校田使次官
- 承和13年(846年) 正月7日:従四位上
- 嘉祥2年(849年) 2月6日:卒去(散位従四位上)
系譜
[編集]『尊卑分脈』による。