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藤原顕実

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
藤原 顕実
時代 平安時代中期 - 後期
生誕 永承4年(1049年
死没 天永元年7月13日1110年8月29日
官位 従三位参議
主君 後冷泉天皇後三条天皇白河天皇堀河天皇鳥羽天皇
氏族 藤原北家小野宮流
父母 父:藤原資仲、母:源経頼の娘
兄弟 顕実行仲顕仲仲通、静明、慶源、静経、相豪、静命、藤原兼実
藤原師仲の娘
資信実重、相実、実範、浄顕、静慶
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藤原 顕実(ふじわら の あきざね、旧字体藤󠄁原 顯實)は、平安時代中期から後期にかけての公卿藤原北家小野宮流権中納言藤原資仲の長男。官位従三位参議

経歴

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康平4年(1061年従五位下叙爵治暦5年(1069年)に三河権守に任ぜられ、延久2年(1070年兵部少輔に遷った。延久3年(1071年)に左兵衛佐に任官。

延久4年(1072年)従五位上・右兵衛佐に叙任され、延久6年12月(1075年1月)左近衛少将に任ぜられる。承保2年(1075年)には備前権介を兼ね、右近衛少将に転じる。承保4年(1077年)に正五位下、続けて従四位下に叙せられ、承暦4年(1080年)に美作権守を兼ねた。永保2年(1082年)従四位上に進み、応徳2年(1085年)備前権介を兼任する。応徳4年(1087年)3月の石清水臨時祭では舞人に奉仕した。

寛治3年(1089年)3月、太政大臣藤原師実が二度目の上表を行った際には、勅答使となる。寛治4年(1090年太皇太后亮に任ぜられて章子内親王に近侍。周防権介を兼ねる。寛治8年(1094年)に右近衛少将に転任し、嘉保2年(1095年正四位下備後介に叙任された。

康和2年(1100年)美作介を経て、康和4年(1102年堀河天皇蔵人頭に補任される。これに際して藤原宗忠は、既に顕実は54歳という高齢であるが、名家・小野宮家の末流であり、同じ小野宮流の人々の中でも「三代殿上之侍臣」として、夙夜奉公することを怠らなかったため、顕実がこれに補任されることは道理であると評している[1]。同年11月27日、邸宅が焼亡した。

康和6年(1104年丹波権介を兼ね、東宮昇殿を聴された。続いて、長治3年(1106年参議に任ぜられて58歳にして公卿に列し、昇殿を聴される。さらに嘉承2年(1107年)に美作権守を兼任する。同年2月には祈年穀奉幣の奉幣使、4月には梅宮祭の上卿も務めた。

天仁元年(1108年)に従三位・丹波権守に叙任されるが、天永元年(1110年)閏7月13日に薨去。享年62。

祖父・資平は32歳にして参議となり、大納言まで昇った。また、父・資仲は48歳で参議となり権中納言にまで至ったが、顕実は参議任官時既に58歳であり極官は従三位・参議であった。子である資信は参議任官時68歳であったが長命を保って中納言に至る。しかし、結果的に資信が小野宮流出身の最後の公卿となり、同流は没落していった。

官歴

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※以下、註釈の無いものは『公卿補任』の記載に従う。

  • 康平4年(1061年)正月6日:従五位下に叙す(氏)。
  • 治暦5年(1069年)4月6日:三河権守に任ず。
  • 延久2年(1070年)正月29日:兵部少輔に任ず。
  • 延久3年(1071年)11月18日:左兵衛佐に任ず。
  • 延久4年(1072年
    • 7月24日:右兵衛佐に転ず。
    • 12月:従五位上に叙す(大嘗會。殿上)。
  • 延久6年12月26日(1075年1月15日):左近衛少将に任ず。
  • 承保2年(1075年)
    • 正月28日:備前権介を兼ぬ(少将労)。
    • 12月15日(1076年1月23日):右近衛少将に遷る。介如元。
  • 承保4年(1077年
    • 正月6日:正五位下に叙す(少将労)。
    • 正月11日:従四位下に叙す(行幸陽明門院賞)。
  • 承暦4年(1080年)2月28日:美作権介を兼ぬ(少将労)。
  • 永保2年(1082年)正月5日:従四位上に叙す(臨時)。
  • 応徳2年(1085年)2月15日:備前権介を兼ぬ(少将労)。
  • 応徳4年(1087年)3月18日:石清水臨時祭の舞人を務む[2]
  • 寛治3年(1089年)4月11日:太政大臣師実の上表に際して勅答使を務む[3]
  • 寛治4年(1090年)正月28日:太皇太后宮亮・周防権介を兼ぬ(少将労)。
  • 寛治8年(1094年)3月28日:右近衛中将に転ず。兼官如元。
  • 嘉保2年(1095年
    • 正月7日:正四位下に叙す(臨時)。
    • 正月28日:備後介を兼ぬ(少将労)。
    • 2月15日:祈年穀奉幣にて奉幣使に任ず[4]
    • 4月5日:梅宮祭にて上卿に任ず[5]
  • 永長元年12月26日(1097年1月12日):中宮職事に補す。
  • 康和2年(1100年)正月28日:美作介を兼ぬ(中将労)。
  • 康和4年(1102年)6月23日:蔵人頭に補す。
  • 康和6年(1104年
    • 正月27日:丹波権介を兼ぬ(亮労)。
    • 2月6日:東宮昇殿を聴す[6]
  • 長治2年(1105年)12月:太皇太后宮亮を辞す。
  • 長治3年(1106年)/嘉承元年
    • 3月11日:参議に任ず。
    • 5月13日:昇殿を聴す[7]
  • 嘉承]年(1107年)正月:美作権守を兼ぬ。
  • 天仁元年(1108年
    • 11月10日:丹波権守に遷る。
    • 11月20日:従三位に叙す(大嘗會国司)。
  • 天永元年(1110年)閏7月13日:薨ず。享年62。

系譜

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脚注

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  1. ^ 中右記康和4年6月23日条。
  2. ^ 石清水文書』五 臨時祭。
  3. ^ 後二条師通記寛治3年4月11日条。
  4. ^ 中右記嘉承2年2月15日条。
  5. ^ 永昌記』嘉承2年4月5日条。
  6. ^ 『中右記』康和6年2月6日条。
  7. ^ 『中右記』嘉承元年5月13日条。