藤原顕実
時代 | 平安時代中期 - 後期 |
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生誕 | 永承4年(1049年) |
死没 | 天永元年閏7月13日(1110年8月29日) |
官位 | 従三位、参議 |
主君 | 後冷泉天皇→後三条天皇→白河天皇→堀河天皇→鳥羽天皇 |
氏族 | 藤原北家小野宮流 |
父母 | 父:藤原資仲、母:源経頼の娘 |
兄弟 | 顕実、行仲、顕仲、仲通、静明、慶源、静経、相豪、静命、藤原兼実室 |
妻 | 藤原師仲の娘 |
子 | 資信、実重、相実、実範、浄顕、静慶 |
藤原 顕実(ふじわら の あきざね、旧字体:藤󠄁原 顯實)は、平安時代中期から後期にかけての公卿。藤原北家小野宮流、権中納言・藤原資仲の長男。官位は従三位・参議。
経歴
[編集]康平4年(1061年)従五位下に叙爵。治暦5年(1069年)に三河権守に任ぜられ、延久2年(1070年)兵部少輔に遷った。延久3年(1071年)に左兵衛佐に任官。
延久4年(1072年)従五位上・右兵衛佐に叙任され、延久6年12月(1075年1月)左近衛少将に任ぜられる。承保2年(1075年)には備前権介を兼ね、右近衛少将に転じる。承保4年(1077年)に正五位下、続けて従四位下に叙せられ、承暦4年(1080年)に美作権守を兼ねた。永保2年(1082年)従四位上に進み、応徳2年(1085年)備前権介を兼任する。応徳4年(1087年)3月の石清水臨時祭では舞人に奉仕した。
寛治3年(1089年)3月、太政大臣・藤原師実が二度目の上表を行った際には、勅答使となる。寛治4年(1090年)太皇太后亮に任ぜられて章子内親王に近侍。周防権介を兼ねる。寛治8年(1094年)に右近衛少将に転任し、嘉保2年(1095年)正四位下・備後介に叙任された。
康和2年(1100年)美作介を経て、康和4年(1102年)堀河天皇の蔵人頭に補任される。これに際して藤原宗忠は、既に顕実は54歳という高齢であるが、名家・小野宮家の末流であり、同じ小野宮流の人々の中でも「三代殿上之侍臣」として、夙夜奉公することを怠らなかったため、顕実がこれに補任されることは道理であると評している[1]。同年11月27日、邸宅が焼亡した。
康和6年(1104年)丹波権介を兼ね、東宮昇殿を聴された。続いて、長治3年(1106年)参議に任ぜられて58歳にして公卿に列し、昇殿を聴される。さらに嘉承2年(1107年)に美作権守を兼任する。同年2月には祈年穀奉幣の奉幣使、4月には梅宮祭の上卿も務めた。
天仁元年(1108年)に従三位・丹波権守に叙任されるが、天永元年(1110年)閏7月13日に薨去。享年62。
祖父・資平は32歳にして参議となり、大納言まで昇った。また、父・資仲は48歳で参議となり権中納言にまで至ったが、顕実は参議任官時既に58歳であり極官は従三位・参議であった。子である資信は参議任官時68歳であったが長命を保って中納言に至る。しかし、結果的に資信が小野宮流出身の最後の公卿となり、同流は没落していった。
官歴
[編集]※以下、註釈の無いものは『公卿補任』の記載に従う。
- 康平4年(1061年)正月6日:従五位下に叙す(氏)。
- 治暦5年(1069年)4月6日:三河権守に任ず。
- 延久2年(1070年)正月29日:兵部少輔に任ず。
- 延久3年(1071年)11月18日:左兵衛佐に任ず。
- 延久4年(1072年)
- 7月24日:右兵衛佐に転ず。
- 12月:従五位上に叙す(大嘗會。殿上)。
- 延久6年12月26日(1075年1月15日):左近衛少将に任ず。
- 承保2年(1075年)
- 正月28日:備前権介を兼ぬ(少将労)。
- 12月15日(1076年1月23日):右近衛少将に遷る。介如元。
- 承保4年(1077年)
- 正月6日:正五位下に叙す(少将労)。
- 正月11日:従四位下に叙す(行幸陽明門院賞)。
- 承暦4年(1080年)2月28日:美作権介を兼ぬ(少将労)。
- 永保2年(1082年)正月5日:従四位上に叙す(臨時)。
- 応徳2年(1085年)2月15日:備前権介を兼ぬ(少将労)。
- 応徳4年(1087年)3月18日:石清水臨時祭の舞人を務む[2]。
- 寛治3年(1089年)4月11日:太政大臣師実の上表に際して勅答使を務む[3]。
- 寛治4年(1090年)正月28日:太皇太后宮亮・周防権介を兼ぬ(少将労)。
- 寛治8年(1094年)3月28日:右近衛中将に転ず。兼官如元。
- 嘉保2年(1095年)
- 永長元年12月26日(1097年1月12日):中宮職事に補す。
- 康和2年(1100年)正月28日:美作介を兼ぬ(中将労)。
- 康和4年(1102年)6月23日:蔵人頭に補す。
- 康和6年(1104年)
- 正月27日:丹波権介を兼ぬ(亮労)。
- 2月6日:東宮昇殿を聴す[6]。
- 長治2年(1105年)12月:太皇太后宮亮を辞す。
- 長治3年(1106年)/嘉承元年
- 3月11日:参議に任ず。
- 5月13日:昇殿を聴す[7]。
- 嘉承]年(1107年)正月:美作権守を兼ぬ。
- 天仁元年(1108年)
- 11月10日:丹波権守に遷る。
- 11月20日:従三位に叙す(大嘗會国司)。
- 天永元年(1110年)閏7月13日:薨ず。享年62。