藤原高経
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時代 | 平安時代前期 |
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生誕 | 不詳 |
死没 | 寛平5年5月19日(893年6月7日) |
官位 | 正四位下、右兵衛督 |
主君 | 清和天皇→陽成天皇→光孝天皇→宇多天皇 |
氏族 | 藤原北家長良流 |
父母 |
父:藤原長良 母:藤原乙春(藤原総継の娘) |
兄弟 | 国経、遠経、基経、高経、有子、弘経、淑子、高子、清経、栄子 |
妻 | 津守榎井嶋丸の娘 |
子 | 藤原國豊(木幡右近太夫) |
藤原 高経(ふじわら の たかつね)は、平安時代前期の貴族・歌人。藤原北家、権中納言・藤原長良の四男。官位は正四位下・右兵衛督。
経歴
[編集]右衛門大尉・蔵人を経て、貞観13年(871年)従五位下に叙爵し、翌貞観14年(872年)相模権介に任ぜられ地方官に転じる。甥の陽成天皇が即位した翌年の元慶元年(877年)従五位上に叙せられ、陽成朝では右衛門権佐・左兵衛権佐と武官を歴任。
光孝朝でも左衛門佐と引き続き武官を務め、仁和2年12月(887年1月)には高経の別荘に光孝天皇の行幸があり、まもなく正五位下に叙せられている。仁和3年(887年)宇多天皇の即位に伴い蔵人頭に任ぜられるが、寛平2年(890年)病により蔵人頭を辞任。同年従四位下・右兵衛督に叙任。寛平5年(893年)5月19日卒去。
勅撰歌人として『後撰和歌集』に和歌作品が1首採録されている[1]。
官歴
[編集]注記のないものは『古今和歌集目録』による。
- 貞観9年(867年) 正月12日:右衛門大尉
- 貞観11年(869年) 正月:蔵人
- 貞観13年(871年) ○月7日:従五位下
- 貞観14年(872年) 2月29日:相模権介
- 元慶元年(877年) 11月21日:従五位上
- 元慶8年(884年) 5月29日:左衛門佐。11月:左兵衛権佐
- 仁和2年(886年) 12月18日:正五位下
- 仁和3年(887年) 3月7日:兼内蔵権頭。8月21日:蔵人頭
- 寛平2年(890年) 正月21日:従四位下。4月18日:右兵衛督
- 時期不詳:正四位下[2]
- 寛平5年(893年) 5月19日:卒去[2]
系譜
[編集]『尊卑分脈』による。