コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

藤橋 (立山町)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
藤橋

地図
基本情報
日本の旗 日本
所在地 富山県中新川郡立山町芦峅寺
交差物件 称名川
用途 道路橋
路線名 富山県道43号富山上滝立山線富山県道170号弘法称名立山停車場線
建設 1970年昭和45年)
座標 北緯36度35分7.6534秒 東経137度26分46.3991秒 / 北緯36.585459278度 東経137.446221972度 / 36.585459278; 137.446221972座標: 北緯36度35分7.6534秒 東経137度26分46.3991秒 / 北緯36.585459278度 東経137.446221972度 / 36.585459278; 137.446221972
構造諸元
全長 109.5 m
7.0 m
地図
藤橋の位置
藤橋の位置
藤橋の位置
藤橋の位置
藤橋の位置
関連項目
橋の一覧 - 各国の橋 - 橋の形式
テンプレートを表示

藤橋(ふじばし)は、富山県中新川郡立山町芦峅寺称名川に架かる橋である[注釈 1]

概要

[編集]

中新川郡立山町芦峅寺の称名川と常願寺川が落ち合う手前に架橋されており、橋上には富山県道43号富山上滝立山線および富山県道170号弘法称名立山停車場線が通る[3][1][4][5]。現橋は1970年昭和45年)に竣工したもので、全長109.5メートル、幅員7.0メートルを有する[4]。かつては蔓を以て編まれた吊橋として名を知られ、立山登山の難所であった[4]。近世においては、愛本の刎橋富山の舟橋と共に越中の三橋の一つに数えられた[5]。藤橋は同地において小字としても用いられる。

歴史

[編集]

伝説

[編集]

『越中志徴』には

卍山広記立山寄付券記序に、越中之立山。山径険而茅塞。山川急而無橋。古来欲者無之。茲加州金沢道俗。見其如一レ是。捨財作券。寄附之岩崎寺。約云。自今以後。年々収此息利益。以除山径茅草。以造山川藤橋。尽未来際莫令断絶。烏乎。用心之勤。誰不称嘆。云々。一日浄安。極楽。妙慶三寺上人。捧券将来。乞一言於其端。乃揮毫応責也。とあり。按ふに、浄安・極楽・妙慶三寺は、皆金沢泉野寺町浄土宗の寺院なれば、此寺院の住職等の懇志より起りたるなりと聞ゆ。岩崎寺は岩峅寺の誤写なるべし。

とあり、昔から立山登山の難所であった称名川に加賀国金沢の僧が私財を投げ売って架橋する端緒を作ったと伝えられる[6]

また道元禅師が参拝のためにこの地に来たところ増水のために渡渉できず、岩上に坐禅して減水を待っていたところ、彼方の山より12匹の藤蔓を持った十二光仏の化身である猿が現れ、それを以て橋を造ったとの伝承もあり、これに感じて道元がよんだといわれる「立山の南無とからめし藤橋を踏みはずすなよ彌陀の浄土へ」という和歌を刻んだ碑が橋のたもとに建立されている[7]。ただし、猿に助けられて川を渡ったという伝説は、道元ではなくて佐伯有頼の話として伝えられることもある[3]

近世

[編集]
1909年(明治42年)の藤橋

このようにその濫觴に様々な伝承が残る藤橋であるが、1682年天和2年)の『立山路往』によれば藤橋はもともと籠を以て両岸を接続する籠の渡しであったとされる[1]。これが後に藤蔓を以て作られた藤橋となったとされ[1]、『日本行脚文集』(1683年(天和3年))には次のごとくその様子を伝えている[8][3]

嶮河の欠路をつたふ、かの籮の渡につく。今は葛藤の絃橋を四十間のいらち川にかけたり。凹に撓めるが毒蛇の口にわたせしもかくこそ。見るさへ肝つぶれぬ。梢颪のたゆめるひまに目ふたぎ。南無の声ともにむかふの岸につきぬ。

かくのごとく藤橋は立山登山の難所として伝えられており、1806年文化3年)に立山に登った海保青陵は『日本九峰修行記』に藤橋について「軽業の綱渡り」と言い、宮崎成身の『視聴草』(1830年天保3年))にも「立山禅定するもの十人に九人は此橋より引返す」とするなど、その恐ろしさを強調して記載する文献が多く残っている[3][1]

また、『和漢三才図会』に「渡藤橋行人取垢離」とある如く[9]、この橋は立山参拝にあたっての禊の地としても知られ、明治初期までは立山に登る人々はこの橋の附近においてその身を清流によって清めたといわれている[10]。『廻国雑記』には、

かくて立山に禅定し侍りけるに、先三途川に到りて、思ひつゞけらる、この身にて渡るもうれしみつせ川 さりとも後の世にはしづまじ

とあり、この川が聖俗の境界となっていたことが知られる[11][12]

近代以降

[編集]
1932年(昭和7年)頃の木製にかわった藤橋

明治初期に藤蔓だけでは危険であるため、藤橋は鋼線を以て作られた吊橋に架替られ、その後昭和初期に入って木板を敷き詰めた頑丈な吊り橋にとってかわった[4][5]。この後、1961年(昭和36年)よりコンクリート橋脚の永久橋の建設に着手し[13]1963年(昭和38年)5月15日に竣工して渡橋式を挙行したが[14]、この橋は1969年(昭和44年)8月11日の水害によって流出した[15][16]。この流出後の1970年(昭和45年)に改めて自動車交通可能な近代的永久橋を架したものが、現橋となっている[5][1]。かつて氾濫の多かった川には多数の堰堤が建設され[10]、川床に土砂が堆積して近世の文献に伝えられるような高度感や恐怖感は失われており[1]、藤橋は名のみを留めることとなった[3]

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ 藤橋とは藤蔓を編んで掛けた釣橋をいう一般名詞であり[1]、富山県内においては砺波市庄川町にも藤橋を称する橋がある(藤橋 (砺波市)[2]

出典

[編集]
  1. ^ a b c d e f g 高瀬重雄編、『日本歴史地名大系第16巻 富山県の地名』(248頁)、2001年(平成13年)7月、平凡社
  2. ^ 藤橋(砺波市庄川町小牧~湯山) - 2017年(平成29年)2月20日、北日本新聞社
  3. ^ a b c d e 富山新聞社大百科事典編集部編、『富山県大百科事典』(766頁)、1976年(昭和51年)8月、富山新聞社
  4. ^ a b c d 富山大百科事典編集事務局編、『富山大百科事典 下巻』(108頁)、1994年(平成6年)8月、北日本新聞社
  5. ^ a b c d 「角川日本地名大辞典」編纂委員会編、『角川日本地名大辞典 16 富山県』(754頁)、1979年(昭和54年)10月、角川書店
  6. ^ 森田柿苑、『越中志徴』(592頁)、1973年(昭和48年)5月、富山新聞社
  7. ^ 「越中の伝承(8) 藤橋と千寿ヶ原」、『北日本新聞』(13面)、1971年(昭和56年)2月9日、北日本新聞社
  8. ^ 博文館編輯局編、『紀行文集』(873頁)、1900年(明治33年)5月、博文館
  9. ^ 寺島良安編、『和漢三才図会 中巻』(1318頁)、1884年(明治17年)7月、中近堂
  10. ^ a b 「橋のある風景 藤橋」、『北日本新聞』夕刊、1986年(昭和61年)10月25日、北日本新聞社
  11. ^ 吉田東伍編、『大日本地名辞書 中巻』(1969頁)、1907年(明治40年)10月、冨山房
  12. ^ 『廻国雑記』(21頁)、1899年(明治32年)9月、文学同志会
  13. ^ 「第一期工事が完成 藤橋の架け替え工事」、『富山新聞』(6面)、1962年(昭和37年)6月24日、富山新聞社
  14. ^ 「藤橋で渡橋式」、『北日本新聞』(6面)、1963年(昭和38年)5月16日、北日本新聞社
  15. ^ 『北日本新聞』(15面)、1969年(昭和44年)8月12日、北日本新聞社
  16. ^ 昭和44年の災害-常願寺川の災害と事務所の沿革 - 国土交通省北陸地方整備局立山砂防事務所

参考文献

[編集]
  • 吉田東伍編、『大日本地名辞書 中巻』(1969頁)、1907年(明治40年)10月、冨山房
  • 森田柿苑、『越中志徴』、1973年(昭和48年)5月、富山新聞社
  • 「角川日本地名大辞典」編纂委員会編、『角川日本地名大辞典 16 富山県』、1979年(昭和54年)10月、角川書店
  • 富山新聞社大百科事典編集部編、『富山県大百科事典』、1976年(昭和51年)8月、富山新聞社
  • 富山大百科事典編集事務局編、『富山大百科事典 下巻』、1994年(平成6年)8月、北日本新聞社
  • 高瀬重雄編、『日本歴史地名大系第16巻 富山県の地名』、2001年(平成13年)7月、平凡社

関連項目

[編集]