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藤立次郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
藤立 次郎
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 大阪府大阪市旭区
生年月日 (1971-06-22) 1971年6月22日(53歳)
身長
体重
180 cm
93 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 外野手
プロ入り 1989年 ドラフト4位
初出場 1990年10月17日
最終出場 2003年4月22日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

藤立 次郎(ふじたて じろう、1971年6月22日 - )は、大阪府大阪市旭区出身の元プロ野球選手外野手)。右投右打。

経歴

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天理高時代は、2年次に夏の甲子園に出場した。3年次は奈良県予選で敗退した。

1989年のプロ野球ドラフト会議近鉄バファローズから4位指名を受け入団。契約金は3800万円、推定年俸は400万円[1]。背番号は39[2]

近鉄時代

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プロ1年目の1990年から一軍初出場を果たし、その後は右の代打として徐々に出場機会を増やし、まれにスタメン出場もしていた。

1996年には日本タイ記録となる代打3打席連続本塁打を記録するも、1997年には出場試合数が激減。同年オフに腰を手術し、暫くはリハビリ生活を送った[3]

オリックス時代

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1999年オフ、左キラーぶりを買われ金銭トレードオリックス・ブルーウェーブに移籍。近鉄入団時にも監督だった仰木彬がラブコールを送っていた[4]

2001年10月10日、オリックスから戦力外通告を受けた[5]

中日時代

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2001年オフにテスト入団で中日ドラゴンズに移籍[6][7]。年俸は1,300万円[7]で、背番号は56[8]

2002年は、3月10日の千葉ロッテマリーンズ[9]、翌11日の横浜ベイスターズ[10](いずれもオープン戦)で2試合連続本塁打を打った[10]。開幕一軍入りし[11]、3月30日のヤクルトスワローズとの開幕戦(ナゴヤドーム)では8回に三塁打を放った[12]。4月4日の読売ジャイアンツ戦(ナゴヤドーム)では左腕高橋尚成の先発登板が予想されていたため[13]移籍後初めてスタメン出場し[14]、2本の適時打を打ち3打点を挙げた[13][14]。オフに推定年俸1,200万円(100万円減)で契約を更改[15]

2003年10月5日、中日から戦力外通告を受けた[16]

西武時代

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2003年オフにテスト入団で西武ライオンズに移籍[17]。しかし、翌2004年は一軍出場がなく、9月30日に戦力外通告を受けた[18]。同年限りで現役を引退した。

現役引退後

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引退後は、実家が魚屋であったことなどが縁で水産物関係の会社に再就職し、会社員として生活していることを公表している。

人物

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近鉄、オリックス時代は『左殺しの次郎』や『左殺しの藤立』と称された。

福岡ダイエーホークス田之上慶三郎の全盛期はオリックスとの相性が非常によかったが、藤立だけは逆に田之上との相性がよかった。

近鉄入団当時、フジテレビの『プロ野球ニュース』で、同番組の取材を受けた際に「藤 立次郎」と姓名の区切りを誤ったテロップが表示されたことがある。

私生活では一児の父親。

個人応援歌は、近鉄時代は金村義明からの流用(藤立の退団後藤井彰人にさらに流用)、オリックス時代は新曲(退団後牧田勝吾に流用)だった。

詳細情報

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年度別打撃成績

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O
P
S
1990 近鉄 2 3 3 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 .000 .000 .000 .000
1992 71 136 121 16 34 8 1 3 53 10 2 2 6 0 8 0 1 25 1 .281 .331 .438 .769
1993 19 44 41 6 14 3 1 3 28 6 2 0 2 0 1 0 0 8 1 .341 .357 .683 1.040
1994 48 87 76 15 18 1 0 6 37 15 0 1 0 4 7 0 0 20 2 .237 .287 .487 .774
1995 60 142 125 11 29 4 1 2 41 7 0 1 3 2 12 0 0 30 3 .232 .295 .328 .623
1996 47 104 94 16 29 5 2 9 65 21 1 1 3 1 6 0 0 27 1 .309 .347 .691 1.038
1997 13 19 16 1 4 1 0 0 5 2 0 0 0 0 3 0 0 4 0 .250 .368 .313 .681
1999 9 21 17 1 3 1 0 1 7 2 0 0 1 0 3 0 0 3 3 .176 .300 .412 .712
2000 オリックス 71 123 109 7 29 7 0 3 45 23 0 1 0 1 13 0 0 24 4 .266 .341 .413 .754
2001 54 84 70 4 16 0 1 2 24 16 0 0 0 1 13 1 0 13 9 .229 .345 .343 .688
2002 中日 36 59 55 6 10 3 1 0 15 3 0 0 0 0 4 0 0 14 3 .182 .237 .273 .510
2003 1 1 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 1 .000 .000 .000 .000
通算:12年 431 823 728 84 186 33 7 29 320 105 5 6 15 9 70 1 1 168 28 .255 .318 .440 .758

記録

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背番号

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  • 39 (1990年 - 1999年)
  • 00 (2000年 - 2001年)
  • 56 (2002年 - 2003年)
  • 40 (2004年)

脚注

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出典

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  1. ^ 「近鉄、ドラフト4位の藤立(天理高)と仮契約」『読売新聞』(読売新聞社)1989年12月17日、東京朝刊 スポA 19頁。
  2. ^ 「近鉄が新入団選手発表 野茂背番号11 力強く抱負語る」『中日新聞』(中日新聞社)1989年12月20日、朝刊 運動1面 19頁。
  3. ^ 1998年日刊スポーツ発行プロ野球選手写真名鑑
  4. ^ 2000年日刊スポーツ発行プロ野球選手写真名鑑
  5. ^ 「オリックス、高橋功ら6選手に戦力外通告/プロ野球」『読売新聞』(読売新聞社)2001年10月11日、大阪朝刊 スポA 21頁。
  6. ^ 「中日が新外国人ら4選手をテストで採用/プロ野球」『読売新聞』(読売新聞社)2001年11月17日、大阪朝刊 スポA 19頁。
  7. ^ a b 藤立、左腕キラー襲名だ 前オリックス3選手が入団”. 中日スポーツ. 中日新聞社 (2001年12月12日). 2002年12月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年3月4日閲覧。
  8. ^ 「D 『私を胴上げしてほしい。君たちと感動を味わいたい』 新人7選手入団発表 飛べ、輝け若竜」『中日新聞』(中日新聞社)2001年12月16日、朝刊 運動2面 24頁。
  9. ^ 「オープン戦 10日 ロッテと分ける 藤立が 同点弾」『中日新聞』(中日新聞社)2002年3月11日、朝刊 朝刊運動1面 11頁。
  10. ^ a b 「オープン戦 11日 藤立連日の一発」『中日新聞』(中日新聞社)2002年3月12日、朝刊 朝刊運動1面 23頁。
  11. ^ 「1軍28選手を発表」『東京新聞』(中日新聞東京本社)2002年3月27日、朝刊 朝刊運動2面 20頁。
  12. ^ 山田竜 開幕黒星 粘りは見せた!やり返す!”. 中日スポーツ. 中日新聞社 (2002年3月31日). 2002年12月22日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年3月4日閲覧。
  13. ^ a b 左キラー本領 藤立3打点 7回の好機では凡退”. 中日スポーツ. 中日新聞社 (2002年4月5日). 2002年12月22日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年3月4日閲覧。
  14. ^ a b 「セリーグ 第2節 4日 竜連夜の延長戦負け 10回、高橋 由  決勝アーチ」『中日新聞』(中日新聞社)2002年4月5日、朝刊 朝刊運動2面 24頁。
  15. ^ 「プロ野球契約更改 30日」『中日新聞』(中日新聞社)2002年10月31日、朝刊 朝刊運動1面 27頁。
  16. ^ 「プロ野球短信 5日」『中日新聞』(中日新聞社)2003年10月6日、朝刊 朝刊運動2面 26頁。
  17. ^ 「西武、テスト入団選手発表」『東京新聞』(中日新聞東京本社)2003年12月4日、朝刊 朝刊運動1面 21頁。
  18. ^ 「プロ野球短信 30日」『中日新聞』(中日新聞社)2004年10月1日、朝刊 朝刊運動1面 19頁。

関連項目

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外部リンク

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