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虹橋船

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
虹橋船
基本情報
建造所 ()[1]
艦種 運送船[2]
艦歴
竣工 1860年(万延元年)[1]
就役 明治3年6月22日(1870年7月20日)献納[3]
最期 明治3年7月29日(1870年8月25日)座礁破壊[4]
要目
トン数 450トン[5][注釈 1]
長さ 174 ft (53.04 m)[5][注釈 2]
27 ft (8.23 m)[5]
機関 形式不明
帆装 2ブリッグ[1]
乗員 最終時:81人[6]
搭載能力 200,000(800)[7]
人員:200人[7]
その他 船材:[1]
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虹橋船(こうきょうせん[8]/こうけうせん[9])は、日本海軍の運送船[2] (兵部省所管の運輸船[3])。 『公文類纂』の中には虹橋丸の記述も見られる[10]

虹橋は「にじ」の意味[9]

船歴

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原名はヤコバ1860年(万延元年)に清国ナンキュー[注釈 3]で建造された[1] 木造気船[5]豊津藩の輸送船だった[1]

明治2年12月26日(1870年1月27日)に豊津藩から献納願いが出され[11]、 翌明治3年3月15日(新暦4月15日)付で許可[12]、 6月22日(新暦7月20日)に兵部省が受領した[13]。 また6月18日(新暦7月16日)、アメリカ人を雇い、虹橋船の機関運転を習うことになった[14]

7月29日(新暦8月25日)に樺太開拓使の用船で[6] 黒田清隆らを護送して北海道へ向かったが、千葉県根津浦で座礁、破壊された[15]。 当日は朝7時頃(または4時20分[16])に220人程を乗せて品海を出港[17]、 午後4時7分に上総国夷隅郡河津村根津浦(または花房藩配下川津村海岸字根中[6])[注釈 4]沖の暗礁(根中の瀬[18])に乗り上げた[4]。 船底に穴が開きデッキまで水が来たため、6時頃に便乗者らは陸に避難した[4]。 翌日積荷(600石、味噌50250樽、1,000など[19])の多くを揚陸した[20]。 穴を帆布で塞ぐ作業を試みたが[21] その後波浪による船体の破壊が進み、最終的に放棄された[18]。 なお『海軍省報告書』では8月8日(新暦9月3日)に暗礁に触れて破壊とされている[22]

坐礁の原因は使用した海図に記載の無い暗礁に乗り上げたためで、船長の処分は無かった[23]。 また米国船が用船され、改めて荷物を運送することになった[19]

1879年(明治12年)に千葉県夷隅郡川津村沖の海底で沈船の真鍮鉄などが引き揚げられた[24]。 この沈船は虹橋船であり、引き揚げ品は入札、払い下げの形が取られた[24]

船長

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  • 髙田作衛:明治3年7月時[23]

脚注

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注釈

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  1. ^ #近世帝国海軍史要(1974)p.883などでは排水量を450噸としている。
  2. ^ 『日本海軍史 第7巻』によると、長さ54.2m、幅8.4m
  3. ^ 建造場所は原文のまま。南京
  4. ^ 千葉県勝浦市川津地区がある。

出典

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  1. ^ a b c d e f #M1-M9海軍省報告書画像16、明治3年庚午艦船総数表
  2. ^ a b #近世帝国海軍史要(1974)p.883
  3. ^ a b #造船史明治(1973)p.190
  4. ^ a b c #M3公文類纂10/樺太船海中船底損破1画像1
  5. ^ a b c d #造船史明治(1973)p.498
  6. ^ a b c #M3公文類纂9/虹橋丸痛船云々画像1「 虹橋丸御巻エ数十人乗組樺太開拓使為御用松前表エ渡海之由ニ候処去月二十九日支配所川津村海岸字根中ト申処エ乗掛痛船相成候右乗組之面々者佐賀藩士六人松前藩士五人其外乗組六拾人都合八拾人程之旨村役人不取敢届出候間即刻役人共出張為仕尚取調之上御届可申上候得共先不取敢此段御届可申上旨申越候以上 花房藩副公用人 松下行蔵 庚午八月十日 兵部省御役所」
  7. ^ a b #M3公文類纂9/虹橋船積高画像1-2
  8. ^ #銘銘伝(2014)pp.
  9. ^ a b 浅井 1928, pp. 26–27、「虹橋 こうけう Kôkyô」
  10. ^ #M3公文類纂9/虹橋丸乗組人員賄方掛合画像1など。
  11. ^ #M3公文類纂10/蒸気船献納伺画像1
  12. ^ #M3公文類纂10/蒸気船献納伺画像2
  13. ^ #M3公文類纂10/日進艦虹橋船受取の式画像1
  14. ^ #M1-M9海軍省報告書画像13、明治3年6月。
  15. ^ 『日本海軍史』第7巻p.468
  16. ^ #M3公文類纂10/虹橋沈没船長申出画像7、航海日誌1頁。
  17. ^ #M3公文類纂10/樺太船海中船底損破3画像1-2
  18. ^ a b #M3公文類纂10/虹橋沈没船長申出画像3-4
  19. ^ a b #太政類典1篇60巻/樺太開拓使米国船ヲ雇用画像1-3
  20. ^ #M3公文類纂10/虹橋沈没船長申出画像9-10、航海日誌3-4頁。
  21. ^ #M3公文類纂10/虹橋沈没船長申出画像10、航海日誌4頁。
  22. ^ #M1-M9海軍省報告書画像14、明治3年8月。
  23. ^ a b #M3公文類纂10/虹橋沈没船長申出画像1
  24. ^ a b #M12.7-M13.6海軍省報告書画像43(p.76)、艦船備考虹橋

参考文献

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  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
    • 『記録材料・海軍省報告書第一』。Ref.A07062089000。 (国立公文書館)
    • 『記録材料・海軍省報告書』。Ref.A07062091700。  明治12年7月から明治13年6月。(国立公文書館)
    • 『太政類典・第一編・慶応三年~明治四年・第六十巻・外国交際・内地旅行附不開港場回航/樺太開拓使米国船ヲ雇用シ神奈川港ヨリ品川沖ヘ回航セシム』。Ref.A15070470100。 (国立公文書館)
    • 『公文類纂 明治3年 巻9 本省公文 艦船部/神祇 集議 開拓 大学 往復 6月 虹橋丸より乗組人員賄方の義開拓使へ掛合』。Ref.C09090111800。 
    • 『公文類纂 明治3年 巻9 本省公文 艦船部/諸願伺 8月 虹橋丸痛船云々花房藩より届』。Ref.C09090114700。 
    • 『公文類纂 明治3年 巻9 本省公文 艦船部/海軍雑記 月日闕 虹橋船積高并人員等の件』。Ref.C09090123000。 
    • 『公文類纂 明治3年 巻10 本省公文 艦船部/弁官往復 8月 虹橋船樺太船海中船底損破の義申出』。Ref.C09090125100。 
    • 『公文類纂 明治3年 巻10 本省公文 艦船部/諸届 9月 虹橋船樺太船海中船底損破の件に付花房藩より届』。Ref.C09090125300。 
    • 『公文類纂 明治3年 巻10 本省公文 艦船部/諸事件留 巳12月 豊津藩より蒸気船献納の義弁官へ伺』。Ref.C09090133300。 
    • 『公文類纂 明治3年 巻10 本省公文 艦船部/海軍雑記 6月 日進艦虹橋船受取の式』。Ref.C09090135300。 
    • 『公文類纂 明治3年 巻10 本省公文 艦船部/諸願伺 8月 虹橋船航海中暗礁に触沈没云々同船長より申出』。Ref.C09090137100。 
  • 浅井将秀/編『日本海軍艦船名考』東京水交社、1928年12月。 
  • 海軍有終会/編『近世帝国海軍史要(増補)』 明治百年史叢書 第227巻、原書房、1974年4月(原著1938年)。 
  • 海軍歴史保存会『日本海軍史 第7巻』第一法規出版、1995年。
  • 片桐大自『聯合艦隊軍艦銘銘伝<普及版> 全八六〇余隻の栄光と悲劇』潮書房光人社、2014年4月(原著1993年)。ISBN 978-4-7698-1565-5 
  • 造船協会/編『日本近世造船史 明治時代』 明治百年史叢書 第205巻、原書房、1973年(原著1911年)。 
  • 福井静夫『写真日本海軍全艦艇史』ベストセラーズ、1994年。ISBN 4-584-17054-1

関連項目

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