蠣崎富三郎
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蠣崎 富三郎 | |
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生誕 |
1861年4月18日 福島県 |
死没 | 1924年8月30日(63歳没) |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1883 - 1918 |
最終階級 | 陸軍中将 |
指揮 |
第11師団長 歩兵第2旅団長 歩兵第28旅団長 歩兵第48連隊長 |
戦闘 |
日清戦争 日露戦争 *奉天会戦 |
蠣崎 富三郎(かきざき とみさぶろう、1861年4月18日(文久元年3月9日[1][2]) - 1924年(大正13年)8月30日[1][2])は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
経歴
[編集]松前藩家老・名古屋裁判所判事、蠣崎多浪の三男として生れる[1]。陸軍士官学校幼年生徒、士官生徒を経て、1883年(明治16年)12月25日、陸士(旧6期)を卒業し歩兵少尉任官[3]、歩兵第3連隊付となる[1][4]。1886年(明治19年)1月、陸軍大学校に入学したが退校し、後に再入校して1891年(明治24年)12月、同校(7期)を優等で卒業した[5][6]。参謀本部副官、陸大教官などを歴任し、日清戦争では第1軍参謀として出征した[1]。1895年(明治28年)から1898年(明治31年)までフランスに留学し、1899年(明治32年)1月に帰国[1]。その後、陸大教官、陸軍戸山学校教官などを歴任した[1][5]。
日露戦争では、第1軍兵站監部参謀長として出征した[1][2][5]。1905年(明治38年)3月、奉天会戦直前に陸軍大佐に進級し第10師団参謀長に発令され奉天会戦に参戦した[1][2][5]。歩兵第48連隊長を経て、1909年(明治42年)8月、陸軍少将に進級し歩兵第28旅団長となり、歩兵第2旅団長を経て、1912年(大正元年)12月、ロシア大使館付武官となり、第一次世界大戦の情報収集に従事[1][2][5]。1914年(大正3年)8月、陸軍中将となり第11師団長に就任[1][2][5]。1917年(大正6年)8月に待命となり、翌年4月、予備役に編入された[1][2][5]。
栄典
[編集]- 位階
- 1889年(明治22年)7月15日 - 従七位[7]
- 1898年(明治31年)10月31日 - 従六位[8]
- 1903年(明治36年)10月10日 - 正六位[9]
- 1905年(明治38年)4月7日 - 従五位[10]
- 1909年(明治42年)10月20日 - 正五位[11]
- 1914年(大正3年)9月1日 - 従四位[12]
- 1916年(大正5年)9月20日 - 正四位[13]
- 勲章等
- 1895年(明治28年)11月18日 - 明治二十七八年従軍記章[14]
- 1901年(明治34年)11月30日 - 勲五等瑞宝章[15]
- 1905年(明治38年)5月30日 - 勲四等瑞宝章[16]
- 1915年(大正4年)
親族
[編集]脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 『日本陸海軍総合事典』第2版、45頁。
- ^ a b c d e f g 『日本陸軍将官辞典』202頁。
- ^ 『官報』第151号、明治16年12月27日。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』67、69頁。
- ^ a b c d e f g 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』69頁。
- ^ 『日本陸海軍総合事典』第2版。45、547頁。
- ^ 『官報』第1820号「叙任及辞令」1889年7月24日。
- ^ 『官報』第4603号「敍任及辞令」1898年11月1日。
- ^ 『官報』第6085号「叙任及辞令」1903年10月12日。
- ^ 『官報』第6531号「叙任及辞令」1905年4月12日。
- ^ 『官報』第7899号「叙任及辞令」1909年10月21日。
- ^ 『官報』第627号「叙任及辞令」1914年9月2日。
- ^ 『官報』第1244号「叙任及辞令」1916年9月21日。
- ^ 『官報』第3824号・付録「辞令」1896年4月1日。
- ^ 『官報』第5525号「叙任及辞令」1901年12月2日。
- ^ 『官報』第6573号「叙任及辞令」1905年5月31日。
- ^ 『官報』第1194号「叙任及辞令」1916年7月24日。
- ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
- ^ 『官報』第7575号、明治41年9月24日。