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袁枚

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
袁枚
羅聘画、袁枚像、京都国立博物館所蔵。
プロフィール
出生: 1716年3月25日
死去: 1798年1月3日
出身地: 杭州府銭塘県
職業: 文人・詩人
各種表記
各種表記(本名)
繁体字 袁枚
簡体字 袁枚
拼音 Yuán Méi
ラテン字 Yüan2 Mei2
注音二式 Yuán Méi
和名表記: えん ばい
発音転記: ユエン・メイ
英語名 Yuan Mei
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『清代学者像伝』第一集より、黄小泉「随園先生五十歳小像」

袁 枚(えん ばい、康熙55年3月2日(1716年3月25日) - 嘉慶2年11月17日(1798年1月3日)[1])は、中国代の文人詩人食通として名高い。子才。号は簡斎、別の号として随園老人という。杭州府銭塘県の出身。本貫寧波府慈谿県

略歴

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12歳で生員に合格し1738年挙人となり、翌年には24歳で進士に及第した。しばらく翰林院に在籍してから公務につくが、若さに不安を持たれたせいか妬みのためか、地方しか任されず、溧水県令に出されてから以後は江浦沭陽など、地方を転々する。田舎まわりの生活に嫌気がさした彼は38歳の時に官を辞し[2]、そののちは生涯職に就かなかった[3]

若くして引退した後は、江寧につとめていたとき買った「随園中国語版」と名づけた庭園のある邸宅に隠遁自適し、読書や執筆を事とし、また美食に耽溺して日を送った。高潔にして風雅な詩風が名声を得たことで、入門を望む者や詩文の執筆を依頼する者が続出し、収入には事欠かなかったという。芸術全般に一家言のある人物であるが、その本領とするところは詩文であり、詩人の性情を自由に発露することを重視すべきだという、「性霊説」といわれる袁枚の詩論は『随園詩話中国語版』に論述されている。

婦女文学を提唱して女弟子を多く集めて詩を教え『女弟子詩選』という本まで公刊したことは、男女の礼法を乱す者として糾弾され、放蕩の詩人とさえいわれた[4]。またその他の著作では、食通の彼が追求した当時の中華料理の料理法、各地の食材、料理について詳細に記録したレシピ集の『随園食単』、怪異談を集めた『子不語』が著名である[5]

日本語文献

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著書
評伝

注釈

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  1. ^ 袁枚経学観及其疑経思想探析 中国人民大学清史研究所 2018年7月10日閲覧。
  2. ^ 1971年刊の『閲微草堂筆記 子不語』平凡社 では、24歳で進士、38歳で官を辞すとあるが、2008年刊の『中国古典小説選11 閲微草堂筆記 子不語・続子不語(清代Ⅲ)』明治書院 では、23歳で進士、32歳で官を辞すとある。
  3. ^ 『清史稿』巻四百八十五 列傳二百七十二 文苑二 10「袁枚 程晋芳 張問陶」の条。ウィキソースのロゴ 中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります:清史稿/卷485#袁枚〈程晉芳_張問陶〉
  4. ^ 蕭燕婉著 『清代の女性詩人たち 袁枚の女弟子点描』中国書店、2007年。
  5. ^ 中野清訳 『孔子の話さなかったこと』(情況出版、1998年)あとがき。