西川鉄次郎
西川 鉄次郎 | |
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生誕 |
1854年1月22日 陸奥国会津藩 |
死没 |
1932年6月1日(78歳没) 神奈川県小田原市 |
出身校 |
藩校日新館 沼津兵学校 大学南校 東京開成学校 東京大学法学部 |
職業 |
大審院判事 控訴院長 |
西川 鉄次郎(にしかわ てつじろう、1854年1月22日(嘉永6年12月24日) - 1932年(昭和7年)6月1日[* 1])は、幕末の会津藩士。明治期の裁判官。白虎隊士として戊辰戦争を戦い、裁判官として大審院判事にいたる。中央大学の前身である英吉利法律学校の創立者の一人。
生涯
[編集]会津藩士の子として生まれる。父、西川俊治[1]は、禄高6石5斗2人扶持、御書簡所物書[* 2]勤めである[2]。16歳で戊辰戦争を迎え、白虎寄合二番隊士[3]として8月より越後方面で戦ったが、退却を余儀なくされ、9月6日より会津若松城に戻り三の丸警備にあたる。
戦後静岡藩に留学し、沼津兵学校附属小学校で学ぶ[3]。1878年(明治11年)旧東京大学法学部を卒業。西川は旧東京大学法学部の最初の卒業生の一人であり、同期生6人には河上謹一などがいる[4]。卒業席次は首席であった[5]。外務省に入り大使館書記生[1]として英国で学び、帰国後の1881年(明治14年)内務省に入省した。1884年(明治17年)文部省に移った。文部省在職時に、増島六一郎、菊池武夫、江木衷、穂積陳重ら若手法律家18人と英吉利法律学校を創設し[6]、西川は保険法を講義した[7]。1886年(明治19年)4月に文部省書記官から東京始審裁判所判事として裁判官に転官し、水戸地方裁判所長、横浜地方裁判所長を歴任。1898年(明治31年)から、旧憲法下の最高裁判所である大審院の判事を務める[3]。在任中、『大審院判決摘要類纂』の校閲を行った。その後、1902年(明治35年)に函館控訴院長、1906年(明治39年)より長崎控訴院長[3][* 3]従三位勲二等、会津会会員、享年80[8]。
墓所は、青山霊園附属立山墓地内にある。
栄典・授章・授賞
[編集]- 位階
- 勲章
脚注
[編集]- 注釈
- ^ 『会津会雑誌第40号』「死亡会員略伝 西川鉄次郎君」では2月1日。
- ^ 幕末の会津藩における御書簡は、表御用人支配で幕府との連絡や、御小姓、御厩別当、御供番を支配した。
- ^ 長崎控訴院長からの退任は司法省改革による人員整理に伴うものであった。函館控訴院検事長池上三郎、長崎控訴院検事長山川徳治(石塚英蔵の岳父)らが同時期に休職となっている。(新井勉『大正・昭和前期における司法省の裁判所支配』(日本法学第77巻第3号))
- 出典
- ^ a b 『沼津史料館通信第75号』
- ^ 勉強堂書店『慶應年間会津藩士人名録』97頁
- ^ a b c d 大学史編纂課 (2011-01). “創立者は18人 006 西川鉄次郎 : 白虎隊から司法の道へ” (PDF). タイムトラベル中大125 (中央大学): 12-13 2019年10月16日閲覧。.
- ^ “生徒ノ事”. アジア歴史資料センター Ref.A07062213000、記録材料・東京大学(法、理、文)三学部第六年報 (国立公文書館). 2013年1月6日閲覧。
- ^ 東京帝国大学『東京帝国大学卒業生氏名録』、1926年
- ^ “中央大学の歴史”. 中央大学. 2013年1月6日閲覧。
- ^ 『中央大学二十年史』9-12頁
- ^ 『会津会雑誌第40号』「死亡会員略伝 西川鉄次郎君」
- ^ 『官報』第6076号「叙任及辞令」1903年10月1日。
- ^ 『官報』第7547号「叙任及辞令」1908年8月21日。
- ^ 『官報』第5243号「叙任及辞令」1900年12月21日。
- ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1907年3月31日。
参考文献
[編集]外部リンク
[編集]- 『大審院判決摘要類纂』(近代デジタルライブラリー)
公職 | ||
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先代 松室致 |
長崎控訴院長 1906年 - 1913年 |
次代 手塚太郎 |
先代 古荘一雄 |
函館控訴院長 1902年 - 1906年 |
次代 河村善益 |