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西田為之

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西田爲之から転送)

西田 為之(爲之、にしだ ためゆき、1866年12月27日(慶応2年11月21日[1])- 1925年大正14年)7月24日[2])は、明治から大正期の教育者、実業家政治家衆議院議員大阪府三島郡玉櫛村長。

経歴

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摂津国[3]島下郡内瀬村(大阪府[2]島下郡玉櫛村大字内瀬[4]三島郡玉櫛村[3][5]大字内瀬を経て現茨木市)で、西田為三郎の息子として生まれる[4][注釈 1]。1888年(明治21年)7月、大阪府師範学校を卒業した[2][3][5]

大阪市内の東区高等小学校の校長代(1893年)、首座教員(1894年)を務め、1895年(明治28年)10月から1906年(明治39年)まで船場尋常小学校[注釈 2]で訓導・校長に在任した[4]

その後、帰郷して父の跡を継ぎ、玉櫛村会議員に選出された[6]。1912年(明治45年)3月の立憲国民党支部会で衆議院議員選挙候補者に指名され、同年5月の第11回衆議院議員総選挙に大阪府郡部から立候補したが次点で落選[6][7]。1915年(大正4年)3月、第12回総選挙立憲同志会所属で出馬して当選し[7][8]、その後憲政会に所属し衆議院議員に1期在任した[2][5]。以後、第13回(大阪府郡部、憲政会)、第14回総選挙(大阪府第7区、憲政会公認)に立候補したがいずれも落選した[9][10][11]

1921年(大正10年)8月、玉櫛村長に選出され、再選された直後の1925年7月に死去した[9]。また、農業、工業を営み、その改良に尽力し、化学工業機械取締役を務めた[2][3][5]

著作

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  • 『小学校用大阪府地理歴史 全』前川善兵衛、1899年。

親族

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  • 伯父 西田善五郎(茨木村長、初代茨木町長)[4]

脚注

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注釈

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  1. ^ 生家は代々庄屋、年寄を務めた西田藤兵衛家。『新修茨木市史 第3巻』438頁。
  2. ^ のち統合により大阪市立愛日小学校となり1990年に閉校。『新修茨木市史 第3巻』438頁。

出典

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  1. ^ 衆議院『第三十六回帝国議会衆議院議員名簿』〈衆議院公報附録〉、1915年、4頁。
  2. ^ a b c d e 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』479頁。
  3. ^ a b c d 『現代日本の政治家』同志会52-53頁。
  4. ^ a b c d 『新修茨木市史 第3巻』438頁。
  5. ^ a b c d 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』341頁。
  6. ^ a b 『新修茨木市史 第3巻』439頁。
  7. ^ a b 『衆議院議員総選挙一覧 自第7回至第13回』44頁。
  8. ^ 『新修茨木市史 第3巻』441頁。
  9. ^ a b 『新修茨木市史 第3巻』442-443頁。
  10. ^ 『衆議院議員総選挙一覧 自第7回至第13回』82頁。
  11. ^ 『衆議院議員総選挙一覧 第14回』5頁。

参考文献

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  • 細井肇『現代日本の政治家』國光社、1916年。
  • 衆議院事務局編『衆議院議員総選挙一覧 自第7回至第13回』衆議院事務局、1918年。
  • 衆議院事務局編『衆議院議員総選挙一覧 第14回』衆議院事務局、1924年。
  • 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』衆議院事務局、1940年。
  • 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
  • 茨木市史編さん委員会編『新修茨木市史 第3巻(通史3)』茨木市、2016年。