見前館
表示
見前館 (岩手県) | |
---|---|
別名 | 見前城・見舞館 |
城郭構造 | 平城 |
天守構造 | なし |
築城主 | 見前氏・日戸氏 |
築城年 | 不明 |
主な城主 | 見前氏 |
廃城年 | 天正20年(1592年) |
遺構 | 埋没(掘立柱建物跡・井戸跡・溝跡[1]) |
指定文化財 | 史跡等未指定[2] |
位置 | 北緯39度38分23.2秒 東経141度09分27.8秒 / 北緯39.639778度 東経141.157722度座標: 北緯39度38分23.2秒 東経141度09分27.8秒 / 北緯39.639778度 東経141.157722度 |
地図 |
見前館(みるまえだて)は、岩手県盛岡市西見前8地割館にあった日本の城。別称は見前城、見舞館。
概要
[編集]東を北上川が南流する沖積平野内にあり、平坦だが周囲の沖積低地より1 - 2メートル高くなっている低位段丘上に、東西150メートル・南北250メートルの規模で館跡が所在した。付近に堀田、大館、大手先、搦手などの地名が残っているが、現在、畑や水田になっていて館の地表上での遺構は全く見られない。
1998年(平成10年)5月に個人住宅建築に伴い行われた発掘調査では、地表下40センチメートルまで掘り下げた遺構検出面から中世の掘立柱建物跡5棟と井戸2基、溝1条が検出され、16世紀 - 17世紀初頭の唐津焼皿が1点出土した[1]。
沿革
[編集]陸奥国志和郡西見前村に所在し、古くは見舞とかいて「みるまえ」と訓んだという(『都南村史』)。
築城時期は不明であるが、郡主・斯波氏の家臣・見前氏の本拠地で、元亀・天正にはたびたび南部勢と戦火を交え、斯波氏の前線基地であったと伝えられている。天正16年(1588年)、斯波氏滅亡のころには、南部方の日戸氏が見前の館主となっている。
天正20年(1592年)の諸城破却書上には「見舞 平城 破 信直抱 代官 日戸中務」とあり、破却された。
脚注
[編集]参考資料
[編集]- 「角川日本地名大辞典」編纂委員会『角川日本地名大辞典 3 岩手県』角川書店、1985年3月8日。ISBN 4-04-001030-2。
- (有)平凡社地方資料センター『日本歴史地名大系 第3巻 岩手県の地名』平凡社、1990年7月13日。ISBN 4-582-91022-X。
- 児玉幸多、坪井清足『日本城郭大系 第2巻 青森・岩手・秋田』新人物往来社、1980年7月15日。
- 盛岡市教育委員会 1999「見前館遺跡」『盛岡遺跡群 平成10年度発掘調査概報』盛岡市教育委員会 pp.59-73
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 「盛岡市遺跡地図(2008年版)」盛岡市公式HP